掲載雑感
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古い作品をここに載せることはためらったが、HPは我が身の記録(情報)などを残すには最高のツールと思い、作品写真をスキャンした。 残念ながら遡ればのぼるほど、写真は散逸し作品自体もほとんど手もとにない、残念無念。 作業をしながら、いろんな事が20年であったなーとつくづく思う。がむしゃらに描いてた時期よりもよそ事に勤しんでいる時期の方が多いのに、この年までも「物」創りに深く縁が続くのは、多くの先輩、友人のおかげだと再認識した。ほんまにありがとうです。 日本画を専門として社会人になり、岩絵の具の美しさは感知はしていたが、絵の具を固定する膠に腹がたち(不器用)、順当な日本画には縁が薄く、[膠:にかわ 絵の具の接着剤]振り返れば、作風も変わり続いている。 墨と胡粉と箔(金属)を塗り重ね塗り重ね、そして洗い削りとり、計算より望外の結果に頼る作風の頃。 同じようにして岩絵の具での作品時代。 そして、墨画となった、これは勝負が早い。因州(鳥取県)の画仙紙(未晒し)が気に入り、今でも重宝している。 三十を超えた頃、美術教室DOUDOUをやめ菅沢と云う山村に移り住んだ、標高400mぐらいの過疎の谷である。 このころは絵はあまり描かず「生活」を如何にするか、楽しむか?なんてばかり考えていた。 七年住んだ山。 田んぼもした、山仕事は日常にあり、もちろん炭も作った。大きな声ではいえないが、山の先生と猪狩り(罠を仕掛ける)もした。 月ない夜は漆黒となり、虫や鳥たちが鳴かぬ時は残らず無音となり、四季の匂いは確実にあり、なにがあれども体にコタエル日々の山村暮しは、山々や山村生活者(どう見ても山岳民族的思考の方、農林生産に携わる方、)の方々に多くの事を学び、授かった。 現在は物体作りである。平面から立体へシフトする、この事は時あるごとに思う。自分は「転んだ」のか。と云えばいいのか、ストレスに耐えきれず安易に、保全なのか、平面から逃げたのか、山々に誘発されてのことか。 「性に合う」ことが物体作り、工作なのか? 工作をorganic object(オーガニック・オブジェ)と名付ける。 制作する吾が体の心地よさを頼りにすれば、「指」は天然素材と馴染み、「手」は有機物を触りたくなる。「身体」が優先する物体作り。 「脳」が優先する平面創作では味わえなかった喜び? 「心」はデッサンする能力が欠けていることのストレスで畏縮した、「頭」はデッサンを超えるデッサンを求めマチエールにしがみつき心情を謳い、思想を問い続ける...のが筆を持つ意味なのか?と、悩む。 工作は解放だ。 野放しとなった吾が脳みそとハート。 工作は至福だ。 2001年、パンリアル美術協会に入る。 京都市美術館がステージである、このステージは私に囁く「ヤリタイ事ダケ ヤレ」 |
2004.7
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