死後の世界


2004.10.16


先日、「死後の世界はありますか?」と問われた。問うた人は信じる人であった。
私は、「私は、分からない...知らない...」と云ったり「信じている人の話も聞くし、信じない人の話も聞く」などなどと云った。
ある会の真面目な席のことである。
この手の会話は立場上よくある、そして同じ事を思う。
死後のイメージ(この場合は死後だが、言い換えれば、宗教的前提あるいは信仰・入信の条件)を思い描く事は嫌いではない以前は好きだった、しかし「死後の世界は在る」と決めてする話はどうも苦手であり抵抗を感じる。
決めるのは勝手であるが、一般には現実に見えないし、触れないし、聞こえないし、臭わない。現実を越えたなら可能かもしれぬが、しかし一般は常に現実の世界で動いている、否定しているのではない、私は死後の世界に限らず現実以外の世界も大好きである。

今、伊藤公郎のシタールを聞きながら草稿している。
芸術は非現実の世界をアーチストの手で現実化する、現実化した音は非現実への入り口にもなり、行ったり来たりして心地よい。
一般が感知しづらい死後の世界などは芸術の分野に任せ、宗教はそこに花を添える程度が良いのではないか。

人は誰しも死ぬ、そして死後の世界は来世だけでない、現世も死んだ者からみれば死後の世界だ。
もし死後の世界が展開するとしても私は私の死後の世界(来世)よりも、私が死んで後に残して行く死後の世界(現世)に思いを馳せたい、その為にか感知しづらい死後の世界を掲げ諭すことに抵抗がある。
絵空事を掲げ諭す語りを衆生にsaleする宗教は見たくない
絵空事を衆生にsaleできるのはアーチストだけだ。





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