ふたつの葬式


2004.11.4


この九月と十月の月終わる頃、二つの葬式に関わった。

九月の仏は友人の母、十月の仏は友人の息子であった。どちらも檀家ではないが縁があり導師を引き受け見送った。母も息子も家族葬と云うべきか、葬儀会社や地域に頼らず荼毘に付せられた、私はそれぞれの喪主や家族の意向を酌み告別式の準備に取りかかりながらも僧の役目を見つめ喪家で過ごした。

九月の仏は八十過ぎに脳卒中になり不覚となり遠くに住む友人が自宅介護で引き受けた、おおかた三年もの親孝行だった。私はこの仏が亡くなる一月前にここに来た、友人夫婦は介護の疲れを見せず迎えてくれ夜遅くまで盛り上がり朝には寝たきりになっている母を見舞いもした、友人は「ばあちゃんの足を見てくれ」といい布団をはぐり寝間着を軽くたくし上げた。たしか左の足だったか、爪先から足の甲、くるぶし、その少し上まで堅く黒く石のようになっていた。
明らかに「死」が近づいている呼んでも返事はない。ヘルパーさんと介護医療に支えられ友人夫婦は来る日も来る日も毎日毎日世話をした。介護する者受ける者さぞかし苦労が続いていた事だろうと思うが私は恥ずかしながらピンとこなかった、「ばあちゃんが死んだ時には頼む」と云っていた友人の言葉を承けその時を待っているだけだった。

十月の仏は二十を幾つか越えた青年だった。
仏が小さい頃、私は仏の父親に農作業を教わっていた、仏の父親は自ら建てた我が家を根城として野菜(完全無農薬・完全有機肥料)の引き売りや出荷、肉体労働に汗を出していた、自前のユンボ(重機・パワーショベル)を自在に操り田畑を開墾・改良する仏の父親は頼もしくあり子煩悩な父親であり私とよく遊んでくれた、私は仏の父親の豊富な知識とガッツ有る実践と経験にいつも舌を巻いていた。
この家族の歳事ごとなどに私は偶に参加したものだった。
春は山菜らや田植え、夏は全ての草刈りにウナギの延縄や川遊び、秋には実の時収穫狩猟、冬は広大に広がる持ち場の整理と修理と雪遊びや温泉三昧。春が来て夏が来て秋が来て冬が来る...仏の兄弟たちは父親の元でたくましく成長していった。

九月の仏は初老となった子どもたちの思い出話や苦労話の花に囲まれ、以前お見舞いした時に見せていたギュとした顔は死に化粧の中、安らかにゆったりとくつろいでいた。
特上のにぎり寿司を頬ばりながら初老の子どもたちも私も亡骸のばあちゃんに話しかけた。

十月の仏は未だ魂が在宿しているがごとく血肉の親兄弟を引き留め座らせていた。そこは他人が語れるはずがない愛惜無念の時であった。
仏は二十数年生きて来たが縁尽きて帰らぬ人となった、未だ涙は止まらない。

十月十日で自ら生まれ落ちる人間は無量の縁起の一つとなり一瞬一瞬の縁起を重ね縁尽きれば自ら果てる、縁尽き果てても忘れ去れるまで縁起は続く。
そして命はどこからどこまでが命なのだろうか

年老いた仏も青年の仏も火葬場まで私が送り届けた、車中揺れるたびに家族は棺を守っていた、私は唯ただ前を見て運転していた。





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