生死


2005.2.2


「ブッダを裏切った日本仏教...」先日、神戸の知人が寺の留守番電話に残した声である。
消去したが耳に残る声だ。仏教的サイトがどれほどあり、どれほど見聞したか判らぬがお気に入りに入れてしまったのがある。佐倉氏曽我氏、これらも耳が痛いがついアクセスし参考にもしている。
 
遠い先祖と妻方の水子の供養ができていないと毎月訪れるタクシードライバー、肺癌になったのよと檀家の爺さん、病名を知らされていない近所の篤信者、連絡取れない一人暮らしの新檀家の婆さん、いきなり連絡が来る檀家の死、友人の自死、憂う檀家、老衰、病死、事故死、自殺、殺人、刑死、戦死、人災、天災、いつかは来る家族の死、吾の死、死因の下には個々の数だけある縁起。
十年前、TVに映る阪神大震災思わず岡山の僧友に電話「僧として...なにか...」なにもしなかった十年前。留守電の知人も被災者遺族。

四十をすぎた頃から少しは「死」の前の「生」を法衣で語れる様にはなるがほどほど遠く、死者の弔いと供養と加持祈祷がうつつの姿、回向とまじないで伽藍を保ち糊口をしのぐか驕り奢るか布施暮らし。

はたして「死者を弔う」とは。

死者を弔う葬儀は性質・状態・属性も様々数々ある、ひとつにくるんで云えば亡者と「別れ」、亡者を「送る」儀式である、娑婆の縁が終いた亡者をねんごろに手厚く埋葬するのは残された者の自然の状態なのだろう。
「別れ」の時を持ち、冥福を祈り「送る」宗教的儀礼。近頃は「別れ」に脈所を置くようになった、仏国浄土を表す祭壇よりも遺影と生花が主となる祭壇、裏を返せば葬儀の非宗教化なのだろうか、そして共同体の中で執り行うから個人(家族)で執り行う葬儀が主流となってきた。別れ送る変化は葬儀社の台頭で様々な可能性が出てきた、変化は世の常である。しかし変化の中、血縁の死・地縁の死、人の死に対して素朴な感覚・感情・感性を封じ込める風潮が結果的に出やすくなってきたのではないか。
封じ込めると言うより人生の一大事の「死」に対しての判断を躱す事をやりだしたのではないか。

終わりに臨むと書き臨終と云い、生から死の移行があり、末期の水で始まり逆さごとの中、葬儀一連の様々な風習が亡者の存在を知らしめてきた。風習は亡者への配意の表れでもあり、亡者由縁の繋がる命の中、残る遺族の死別の認知、あるいは他者の死に接して必ずある吾の死を考える装置にもなる、そしてなによりも亡者の成仏、冥福を願う為にも持てる者は財を出し、振る舞い生前の徳を証しをねぎらい野辺に送る。
しきたり、習わし、習俗を擁護するつもりではない、葬儀弔いを人任せ、金任せですることも昨今は仕方がないことかも知れないし、これとて非難する筋合いではない。

「生」の中に生かされる仏(ブッダ)の教義をうやむやに置き去りにして此の方、「死」の中で活路を見いだし存在理由としてきた仏教、亡者に引導を渡し野辺に送り墓に埋葬し供養を重ねれば必ず残らず成仏・ホトケとなる教義。しかし此さへも通らなくあやふやになってきた。「生」に役立たず、「死」にも役立たず。

死者を弔う事は「死」に対して、どう向き合うかであり「死」を境にして「生」をも問われる。
「死」を形にも表してきた先人、生きて行き命をつなぐ事が今以上に困難な時を辛抱してあるいは諦めてでも弔ってきた先人、亡者をうち捨てた事も多々あっただろう先人。
先人達は「死」に対して謙虚に畏敬の念を持っていたのではないか、「死」に対してなら「生」にも当てはまり「生死」共々欲張らず、縁起を据えて諸行無常を肌で感知して身を委ね日々を暮らしていたのではないか。
そこには過度の死後の世界の探求やオカルトは不必要だった。

生死は原初から存在して、死ぬ事実は宗教発生より以前から連綿とある事実、そして死(生死観)は宗教を育ててきたと言っても過言ではない。
一つにくくり宗教を語り死後を語るが「死後」とは、お迎えが来てお陀仏となり昇天して極楽・天国・星となり草葉の陰にもなり偶には枕元に立つし地獄・閻魔さんはなるべく避けたい、と思う。沼のカッパや四谷怪談と同じく豊かで無尽蔵の想念・イマジネーション、生きる活力の中の存在の一つと思うぐらいが丁度良いのではないか。

生死観を統御しようとしてきた宗教は「死」をいくら突き詰めても死からは免れないので死後の世界を展開するのか。
永遠の生、永遠の我を願うから死後の世界を展開するのか。
しかし諸行無常、人間の死後の存在が無かろうが在ろうが、生老病死はあり、それにまつわり悲嘆苦憂悩はある。だのに我を押し通す。

まさに今ある事態には呼ばれず頬被りとなり、冷たくなった衆生に駆けずり、雪駄の音高すぎ嫌われ、見もしてないモノをちらつかせ、魑魅魍魎を跋扈させ、同じ穴となる。




釈迦如来 久遠成道 皆在衆生 一念心中





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