Greenpeace と言えば思い出す


2005.7.19
Greenpeace Japan Mail Magazine から以下の内容が届いた
この痛ましい記事を読んで古い思い出が... 

Greenpeace Japan Mail Magazine 【 グリーンピース・ビジョン(転送歓迎)】

2005/7/9 No.058(月2回定期号発行・月1回特別号発行)
グリーンピースは、グリーン(緑豊か)でピース(平和)な社会を実現するため
活動する環境保護団体です
サポーターお申込 http://www.greenpeace.or.jp/info/supporter/?gv
ご寄付 http://www.greenpeace.or.jp/info/donation/?gv
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フランスの核実験を中止させるため、南太平洋のモルロア環礁へと向かっていた
グリーンピースの船、虹の戦士号(Rainbow Warrior)が、これを阻止しようとす
るフランスの工作員によって爆破、沈没され、1名の乗組員が命を奪われて、今
月10日でちょうど20年を迎えます。グリーンピースでは、この事件を想起すると
ともに、平和で核のない世界の実現への誓いを新たにします。

グリーンピースホームページ
http://www.greenpeace.or.jp/

以下省略


この事件から10年後、グリーンピースの虹の戦士号が地元瀬戸内海にやってきた。
産業廃棄物不法投棄に悩み続ける豊島、50万tともいわれるゴミ、行政の無策、豊島の住民の叫び...いつからかどのようにか知れば知るほど無茶苦茶な現状を視察・抗議の為に。

国内でも動き出した人が居た。動いたのはちろりん村(自然食品)の大西社長であった。
香川県の島ではあるが生活圏も地の利も岡山に近くこちら高松からは不便であったが、大西社長は何度も島に行き考えていた、考えるよりも直感かな「何が今必要か、求められているか」「何をすれば・したいか・できるか」...。行動は多彩だった、岡山から小豆島からあるいは水上タクシーで通い、大がかりには「ままかり号」「ふなむし号」と名付け客船をチャーターして何十人もの感心者を集めて現状視察、横笛のコンサートやキャンプや裁判支援...そして豊島の闘っている人達との交流も忘れず、次々と実行に移した。シーカヤック船団を組んで視察もやったらしい。 
私も誘われて何度か豊島に行き産廃の現状を見た、まだ生々しい時であった。ブスブスと鼻を突く臭い、異様に足に伝わる感触と熱、五感は想像した。豊島に不法に運び込まれた50万tともいわれる産業廃棄物は関西方面からフェリーで来た、ゴミを満載した10tダンプが百万回走る様、得体の知れないタンク車、ぜんそくを起こす野焼き、行政の嘘とほおかむりの繰り返す様、我々の無知と知らぬ顔、1978年から始まる住民の闘い。..豊島の人から豊島の豊かな風景、歴史の案内を頂き救われる時も味わった。

時は1996年7月3日

「ゼロ・ダイオキシン」キャンペーンの旗を振りグリーンピース・虹の戦士号が豊島めがけてやって来た(香川県庁に豊島について意見書提出が目的の一つ)。歓迎の意思表示と豊島の人々にエールを送るためにちろりん村が予算を出した。協議の結果、戦士号停泊場所からよく見える砂浜(高松市浜ノ町)に巨大な鯨のオブジェ、空はセスナの空中セレモニーで迎えることとなった、当日は公安らしき不審なワンボックスのオマケも付いた。
(法規上停泊はできず我々が陣取る砂浜の沖合を微速航行)

話はドンドン進む。
鯨のオブジェ作製の為朝早くから砂浜で杭を立て竹を切り鯨を広げ縄を張り汗を垂らし勤しんだ(らしい、なんせほぼ十年前の話当然細かいところは憶えていない、しかし公安のことは憶えている。たまたまこの時手伝いに来てくれた友人、その友人の奥さんの弟さんは公安勤務、義弟のこの日の現場はココ浜ノ町だった。不審なワンボックスを見に行った友人は義弟とかち合わしたのだった。)昼頃には鯨は砂浜で無事泳ぎだした。
戦士号もいつしかその姿を見せ、数名を残しいざ香川県庁に意見書提出とアッピールの行進に行った。
ここからは忘れることは出来ない危ない話。

Welcome、welcomeと叫んでいたセスナも飛び去り、人垣もなくなり静寂となった夏の砂浜に残ったのは40メートルの鯨と私とちろりん村の大西さんと神野先生。
役目を無事終え気分も楽になった私は余った竹と縄でかわいい筏を作りました、水遊びです私は泳げません、ちょと恥ずかしいけどデカパンツ姿でかわいい筏と波打ち際で遊んでいました。砂浜には鯨、沖には黒い船体の戦士号、いい気分です。いつの間にか大西さんも神野さんも遊泳スタイル神野さん水泳帽までかぶっています。
心に隙があったのかどうしようにもできない運命なのか気持ちよく水遊びをしていた泳げない私とかわいい筏は大西さんと神野さんに引っ張られるように沖に出たのです、私と筏は泳げませんから泳げる人には従うしかありません、しかし湾を出て沖になると海は豹変するのです海水温度は下がりうねりが生まれ潮の流れがあるのです、何故ここで引き返さなかったのか。泳げる人はこの段階で悟ったと云うのです「どうどう(私の名です)は金槌だ」
しかしもう引き返すことは私単独では困難でした私はかわいい筏にしがみついているのがやっとでした、潮は速くなり海水温度は下がり未だ憶えているあの冷たい黒い海、潮の流れと私の青ざめた金槌顔を目の当たりにした泳げる人達は決断したのです。グリーンピース戦士号に助けてもらうしかないと。ここでまた判断ミスか運命か、かすかにあった私の余力は戦士号乗船とか吉田松陰とかミーハー的な馬鹿なことを活力にしたことだったのです。
斯くして、引き返せる可能性よりも無謀な行動を選んだ泳げる人と冷えて堅くなってきた金槌顔と筏は戦士号を目指したのです。

海は夜の海の如くどす黒く冷たく、足が吸い取られると思うほど底知れぬ海原は溺死の舞台となる、大げさであるが泳げない人間の恐怖心は泳げない者にしか判らず恐怖心は硬直を呼び希望と体温を奪う。泳げる人は云った「手足を動かし泳げば体温は上がる」と、やってみた記憶があるが無理だった記憶もある、どうあがいても筏につかまっているのが精一杯だったことはしっかり憶えている。ここで泳げる人の水泳スタイルを記する、おひとりは確実に水泳運動であった、手と足と頭がスムーズに連動して視線は戦士号を捉え存在は確信的であった。かたやのお方は水泳運動は感じられなかった、唯浮いているとしか見られないが不思議な推進力があった。

いつしか波の合間に見える砂浜の鯨は小さくなり替わりに戦士号の甲板上の人の顔が判るほど希望につながる距離に近づいた時に甲板上の女性がハンドマイクでこちらに喋るのだった。

「あなた達のお気持ちは判りますが、問題があります...引き返して下さい」
無情な言葉はそれだけだった。

そんなんじゃない純粋に助けて欲しいのだワカッテクレ〜。

溺れかけている姿より無謀者三人組と読み取ったのだ、仕方がないことなのか。泳げる人はどうもあわよくば不法乗船を考えていたらしいく海パンと水泳帽がその状況証拠なのだ。そしてグリーンピースは遭難者を見捨て無謀者から遠ざかった。

泳げる人は泳げるのだから諦めない、だが私は絶望に近かった。実は時間も距離もたいしたことはない、時間も距離もひっくるめて2時間そこそこ2キロそこそこか、しかし私だけではあるが死ぬ思いだった、そして泣き言を云いたい相手は戦士号だけではなかった。新たな仕打ちがあるとは知らず東に流されながら私と筏は祈るばかりだった。

流されて行く先は築港である、船は多い必ず助かる、ペラに巻き込まれたら怖いとか何だかんだと勇気づけられながら波間に見える船や灯台を見ていたのだろう、そこへいきなり現れたのが海上保安庁の船舶だった、目の前で

「どうしたんだ...何処へ行く...助けようか...」

私は助かったと思った、しかし神野さんは助けを断る大西さんも最初は断る私と筏は沈みかけている。泳げる人はそれぞれ立場があり信条があるのは判るが、二人の立場と二つの信条より一つの命が重いのは明白だ何を迷っているのだと私は思ったのに違いない。泳げる人は相談してやっと諦めた、不甲斐なくお上の縛に着き綱が投げられ曳航(?)だ、嗚呼やっと助かった...。
しかし助かった安堵感は一瞬で海の藻屑となった。お上の船は波しぶきを上げグングン走り出すのであった、オイオイ何故急ぐ、もう助かったのだから急ぐ必要は全くない。
溺れかけていた手は綱を離すまいと水圧と戦い、溺れかけていた足はデカパンツが水流で脱げ落ちるのを防ぐため努力をする努力むなしく脱げ落ちる寸前で足首を交差して食い止める、足はパンツで忙しいから体は不安定でグルグル回る。時間にして何分ぐらいだっただろうか二分か長くて三分か、しかし非常に惨めなものだった海水をたらふく飲まされながら哀れな姿で近くの埠頭に着いた、やっと助かった。

グリーンピースに見捨てられ、お上には理不尽な仕打ちを受け散々な一日だった。
市民運動も命がけだ。

しかし海上保安庁も嫌だね、岡に公安が張り付いていたように海上巡視で一部始終を見ていたに違いない、だからか「このフトドキモノめ!」なのか。ホンマにそれはとんでもない救助方法だった。






Welcome Greenpeace



あれから10年豊島には行っていない、朗報はいくつかあり解決の方向で進んでいるらしい。しかしミミズの養殖と云う事で始まった不法投棄は多くの不のものを残し、消し去ること癒されること不可能な傷を付けた。

休耕田や空き家が目に付いたあの島はあの時以上に荒れた田畑や朽ち果てて行く家を見せているのだろうか。湧き水がこんこんとあり稲作が行き渡る豊かな島、酪農が盛んでミルクの島と呼ばれ人情の乳児院や各福祉施設が調い福祉の島と呼ばせる名の通りの島、豊島。
またいつか訪れてみたい風光明媚な瀬戸内を挟んで燦々と輝く太陽がある豊島に。

豊島の詳しくは香川・豊島にある廃棄物対策豊島住民会議の公式サイトへ



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