そば屋


2005.7.21


師匠に連れられ某有名そば屋に行った。
大きなカーブを曲がりやや分かりにくい高台にあるその店は手入れが行き届き打ち水も施され敷地も広く気持ちよい空間だった、店自体は古民家を改修して各方面風情を演出していた、味も値段も良く良いそば屋だった、しかしもう行く気はしない。
私はそば屋独特と云えばいいのか、ある種のあの風情が解せない、人は「そば道」とも云う。

わたしは讃岐で生まれ育った、ご存じのように讃岐と云えば「うどん」である、うどんは現在第二次うどんブームの後半である、繁盛しているうどん屋、廃れていったうどん屋、そのままのうどん屋。家業を継いだ亭主、新規一発の亭主、脱サラの亭主、マイペースの亭主たちが各々しのぎを削っている。そしてうどん屋の栄枯衰退と日常の中には「うどん道」と云う言葉はない。だが各々亭主の中にはうどんの中に「道」を見つけ観た亭主もいるかもしれない、しかし義ある亭主はうどんを追究する、「道」を追究しないのは「道」たる道しるべ座標がないのか、「道」はうどんには似合わず讃岐の客も求めないからか、どちらにせよ客としては幸いである。
安くて速くて美味いのが讃岐うどんの条件であり小銭で満足できる店が讃岐うどんの本望だと信じている。

端から「道」として「道」を重んじようとして小道具大道具に頼れば舌代が上がるのは必至である、その上ウンチクかたむけ手のひらに乗るだけだのに勿体付けて出してくる商品がそこそこの「そば」「うどん」ならそれは道楽ではないか亭主の道楽に付き合い道楽の肩代わりは御免被りたい。

「道」が付くモノは多い、その道に入れば最初は型の練習である、方法は模倣である、それは基礎でもある基礎は模倣と繰り返しで学び取得できる。模倣と基礎を繰り返し繰り返し重ねる中で個が見えてくるような気がする、誰かも云っていた。その道で達者になる事とはその道で模倣できない自為や全ては先人を超えられない自意識あるいはその道の無常を察知して開拓者となることが条件であって、けっして「道」に寄りかかったり、「道」の道程を見せたり道程で勝負するものではない。「道」そのモノ自体は一義的ではない、ましてや「道」は売り物ではない。
もりそば一枚の話ががややこしくなってきた、しかしもりそば一枚七百円の舌代でまだ遊ぶ。

その後、日頃なにかと世話になっているお方とボーノと云う食堂で飲み食いしている時このそば屋の話が出た、あれだけこだわっての店作りや蘊蓄メニューなのに、ワサビが大根おろしがあれではと云ったり、そば道がどうしたこうしたと云っても上手く説明できない、たまたま食堂のテレビにある絵描きのドキュメント番組が放映されていた。
煌びやかで羨ましいくも思わないでもない画歴が次々と紹介されていく中、250円のざるそばを回し食いしながら云ってしまった。「あのそば屋と同じだ!」テレビの画像は大寺の屏風を納める所だった客殿らしき大広間で落款のパフォーマンスが映し出され、そして礼拝合掌のシーンだった。
そば屋もこの作家も人並み以上に頑張っているのは明らかである、頑張っていない私は云う資格もないし云ってしまったら下衆に落ちてしまうが云ってしまった。

正直告白すれば私はうどんよりそばの方が好きだ、寺から車で30分走るところにある大きなカーブを曲がりやや分かりにくい高台にあるそば屋にも週に一度は行きたい、そしてもりの追加を思う存分に注文したい。
嗚呼情けない唯の貧乏人のひがみ戯言になった。

追加
うどんとそばの歴史は知らないがどちらも粉である、粉は代用食であり本来蕎麦は米麦より農産物価値は低かったのではないか、まず米を作り麦を作りそれが叶わぬ田畑に稗や粟と同格の蕎麦を蒔いた、蕎麦ははやせた土地で二毛作の収穫ができるといった穀物であったと思う、ようするに殿様のお膳には上がらなかったのではないか。それがいつ頃からうどんの三倍五倍十倍の値段となり心身共に敷居が高くなってきたのだろうか、これも文化文明なのか。

もう一枚追加
ここに大廣(おおひろ)と云ううどん屋を紹介したい。
在所は香川県綾歌郡国分寺町柏原中新名プレハブ。うどんを食べに行くことは此処に行くことであるのである。やはり安くて速くて美味い、その上に開拓者である夏場の和風冷麺は時間はかかり少々お高いが美味しいし歴としたうどんである、三回に一回は注文する、以前実験中だったかなんだか忘れたが御馳走になったそば(当然日本蕎麦)は香り豊かなOh~蕎麦だった、つゆはそば道とまではいかないが大満足であった。

そば湯
蕎麦好きなのだが蕎麦のこと何も知らずウンチクを云ってしまった、何故、美味しいそば屋となれば店構え、器、等々がお見事上等となるのか、「味」だけをこだわり執着しているそば屋はどのくらい在るのだろうか、もりそば一枚の中に別の欲がこだわり執着が見えたら鼻につく、頑固一徹そば(うどんでも芸術でもいい)を追究している姿は美しくわかりやすい、創作者は創作にかかわるなか創作物のみで挑むべきであり掛け値を付加すればブラフはったりに映ると、つい小心者の私は思ってしまう人間そんなに器用ではないと。
洒落た店も素敵であるが気軽に食べられるそば屋を望みたい、そして心ゆくまでそばを御馳走になりそば湯を頂きたい。




戻る