「死刑」


この国には死刑制度があります。
毎年死刑判決は何件もくだされ(2003年は27人の被告が死刑判決を受ける)。そして毎年複数の死刑囚が処刑されています。
犯罪被害者のご遺族の方々や関係者の方々にとっては「死刑」はアタリマエとの思いは当然のことと在るのは解ります。(ごめんなさい、私自身、愛する身内、友人が...体験がありません、ない者が簡単に当事者の痛恨の「こころ」内に簡単に触れる事は憚かることです。) 
・・・被害者(側)あるいは加害者(側)になる「縁」は平等にあるのが人間社会の一面かもしれません。

2003年11月24日東京 千代田区公会堂で「死刑執行に終止符を!死刑廃止を願う市民集会」がありました。(主催 アムネスティー・インターナショナル日本。死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム’90)
そこでリレートークに招かれ以下の事を喋りました。
先にかいつまんで、説明しますと。

私は、死刑廃止を目指す市民グループ「死刑廃止国際条約の批准を求める四国フォーラム」の賛同人です。
四国フォーラムは、死刑廃止につながる活動のひとつとして、死刑囚の獄中作の絵画展を企画制作しました。私は、この絵画展の担当者です。ここで、絵を載せることができればいいのですが、作者の了解が必要で、検討中です。

リレートーク
いのちの絵画展

皆さん。こんにちは。  
いのちの絵画展とは死刑囚作の絵画の公募展です。
1996年、未決の死刑囚、確定した死刑囚、そして死刑廃止を願う多くの仲間に呼びかけることから始まりました。

獄中で絵を描いている。
死刑廃止の機関誌に絵を投稿している。
支援者に絵を送り続けている。
その絵画を集めて展覧会をやりたい、多くの人にぜひ観て貰いたい、展覧会となれば絵をかいている彼等はおおきな励みに成るはず、新たな交流も生まれる、そしてなによりも思い付いた所は絵の力、魅力です。
この会場を一歩でれば死刑のことは欠き消えそうであり残念だがなかなか振り向いてくれません。
頭から頭で死刑のことは伝わりにくく、敬遠され下手をすれば逃げられます、しかし絵画の展覧会となれば必ずなにかが広がることと確信がありました。
絵画は人に愛され間口も広く主催者次第で絵の好きな人は来てくれます。
人格の表現と成り得る絵画を観る事とは、制作者と出会うことなんです。

絵を介して死刑囚と出会う、そして死刑の生の実態のいちページに触れ、とかく偏ってイメージされているモノ以外のモノが新たに出て来ると思ったのです。
より多くの人たちに来て頂く為にも、純粋な絵画の公募による展覧会のスタイルは崩さず、ただ出品対象者を死刑判決を受けた事の有る人と死刑となった故人、と定め巡回展を始めたのです。

多くの人に支えられ今までに様々な場所で開催がありました。
やはり絵画ですのでギャラリーが多く、ほかにはお寺、教会、学校等でありました。
現在までに出品者は23名で作品総数は350点余りとなり、この内の157点を額装にして。国内は55箇所、国外は9箇所で開催があり、入場者は6万人を超えています。

絵画に興味が有る無しあるいは、好意的かそうでないかは分かれるところでありますが、何故ここまで大きな展覧会と成り得たのでしょうか。
注目もたしかにあり、有り続けるでしょう、しかしそれは包装紙、パッケージであり中身ではありません。

熟達した絵、非常に限られた画材の中で自分の画風を築いた人、その人そのままの絵、ひたすらにがむしゃらな絵、ほとんどの絵が無二無三切々なのです。
そしてどの絵も独学独創は避けられず、けられないことでますます描きての心情、胸中が発露しているのです。
そして、死刑と云うパッケージに包まれることによりますます死刑の残酷さ愚かさが私たちの胸を打ち、人として人にしか持ち得ない慈悲 情けの心を突き動かすのです。

死刑廃止運動にこれほどの一般大衆の人々が参加している事に目を向ければ、この絵画をもっともっと活用しなければとの思いが有りますが、しかしながら出品者全て、筒抜けのとらわれの身、日々の処遇、それ以上の命を考えれば慎重に成らざる得ないのです。

一枚一枚の絵の中には「死刑」があり「殺人」があったから生まれた絵です。
被害者遺族関係者の方々にはいたたまれない事となるかと思いますが、しかし本当にいいのか!
この人間社会の中で死刑を是とすることが、そのことを根幹から問い架けて来るこの作品群を一人でも多くの人たちに観て貰いたいのです。

絵画(芸術)は人の根幹を表現しえるものであり、人は絵画(芸術)から言語、理論を超えた基準を照らされる事があると思うからです。

今後は巡回展を続けながら新たな応募も呼びかけ、死刑の実態を如実に表すこの絵画を国会議員の方々に肌で感じてもらう為にも国会議事堂での開催を考え世界に訴える為にも国連での開催を心算している次第です。

皆さん上の階に少ない点数ですが展示してますのでどうか観て下さい。

ご清聴ありがとうございました。

いのちの絵画展開催地一覧

1) 1997年 香川県高松市 セントラルギャラリー         700人 
2)     香川県善通寺市 フリースペースなや          250人 
3)     兵庫県御津町 死刑廃止運動全国合宿会場        120人 
4)     宮城県仙台市 カトリック正平協全国集会会場      300人 
5)     兵庫県姫路市 正福寺報恩講               60人
6)     香川県高松市 香川大学大学祭             150人
7)     愛媛県松山市 愛媛県立美術館分館萬翠荘        450人
8)     香川県高松市 真行寺報恩講              200人
9)     京都市    ギャラリー・スペース4U 250人
10)1998年  山形市    ギャラリー”Mu" 100人
11)     奈良市    奈良女性センター           900人
12)     京都市    京大西部講堂前 特設テント内        
13)     東京都豊島区 法明寺鬼子母神境内内 特設テント内
14)     東京都新宿区 新宿区立区民ギャラリー          2000人
15)     高知市    高知市民図書館               700人
16)     静岡市    静岡市中央公民館              800人
17)     静岡県浜松市 浜松復興記念館               600人
18)     埼玉県東松山市 原爆の図・丸木美術館          8000人
19)     愛媛県松山市  カトリック正平協全国集会会場
20)1999年  広島市  アステールプラザ市民ギャラリー      250人
21)      徳島市   県立「文化の森」              615人
22)      京都市   真宗大谷派東本願寺            22000人
23)     福岡市    福岡県立美術館              1500人 
24)     宮城県仙台市 エルパーク仙台              5000人
25)     石川県    浄専寺本堂                100人
26)     石川県    真宗大谷派金沢教務所           500人 
27)     沖縄県    「とまりん」               2200人
28)     大阪府天王寺  應典院                  400人
29)2000年  名古屋市   メディアパーク・デザインホール
30)      名古屋市   真宗大谷派名古屋別院
31)     島根県     島根県立美術館                 
32)     東京都渋谷区  聖心女子大学
33)2001年   山口市        山口サビエル記念聖堂
34)     香川県高松市     セントラルギャラリー
35)     広島市中区      エリザベト音楽大学
36)     東京都千代田区    上智大学カトリックセンター
37)     広島県府中市     府中市文化センター
38)     新潟県        上越市市立高田図書館        745人
39)     福岡県        泰星学園 文化祭
40)     群馬県高崎市     高崎市労使会館
41)     広島市        広島学院
42)     神奈川県       上智短期大学
43)     山口県小野田市    サビエル高等学校
44)     北海道北広島市    JRエルフィンパーク        200人
45)     北海道札幌市     札幌市資料館
46)2002年   滋賀県大津市     ギャラリー杣の道        250人
47)     大津市         天台寺門宗総本山三井寺     1000人  
48)     高島郡         真宗大谷派願力寺         250人
49)     宇山市         宇山市立図書館          220人
50)     大津市         日本キリスト教団樫田教会     150人
51)     大津市         滋賀会館ギャラリー        150人
52)     大津市         真宗大谷派響忍寺         150人
53)     新潟県フジロックフェステバル  NGO VILLAGE
54)      京都市  真宗大谷派東本願寺
55)2003年  秋田県      奥羽教務所  

国外
  2001年   イタリア            国会議事堂       
         バチカン            枢機卿内
         イタリア            総合記者会見内
         フランス ストラスブルク    死刑廃止世界会議
                         第二会場
         ノストラム教会前        青空展示
         パリ     アムネスティー・インターナショナル
         パリ  ラジオ局内
         ドイツ  ボン大学日本文化ゼミ内
         韓国       死刑廃止アジアホォーラム


切に願う死刑廃止
 真宗大谷派死刑鹿止を願う会『いのちの絵画展』報告集より無断掲載
童銅啓純真言宗僧侶
死刑廃止国際条約の批准を求める四国フォーラム


1999年3月31日東本願寺に行く。
私は、真言宗の僧侶です。しかし同宗の友人は修行時代の数名からあまり増えず、その代り真宗の友人は増えつづけ、今回、本山にまで乗りこむことになって、また一段と真宗の友人が増えるのではないかと、誠に奇妙な心配をまじめに考えながら、たぶん初めてであろう東本願寺の山門をくぐりました。

まず、本尊様にあいさつをしまして、事務所に着けば、職員の方々が丁重に迎えてくれました。
当絵画展を企画・制作した四国フォーラムの代表として招かれ、搬入、展示、オープニング、初日と、大谷派の僧侶、宗務所職員の方々と絵画展の成功に向けて時を過しました。

1998年6月29日、真宗大谷派は「死刑制度を問いなおし死刑執行の停止を求める」宗派声明を出した。
ここに至るまでどんな努力、熱意があったか。一宗派の僧侶として想像すれば並大抵のことではなく、そこには死刑廃止を切に願う多くの僧侶達の姿があったから実現したものと思ってます。
人の悲しみ、いたみの中のことをたやすく思い浮かべるのは、悍ることですが、殺害された方々の無念の思い、遺族関係者の方々の痛嘆の思いの中にも。そして、こえては成らない事をやってしまった「死刑囚」の独房の中にも、僧侶が力になれることがあれば、やるのが僧侶のひとつの使命だと思うのです。

人が人を殺すことはいけないことです、戦争、死刑、どんな理由があれども殺すことはいけません。そこから考えるべきです。
私たちの心の土台の中には一切の殺人はだめなんだ、したくない」という心があります。
みんな持っているはずです。みんなで生きていく中で、よりどころになっている消滅することのない清浄な心です。でも無くなることはないものの、曇ったり、小さく小さく
なったり、忘れてしまったりすることはあると思うのです。だが大切なよりどころです、はずすことはできません。
まして共同体・社会となればなおのことです。ややもすると無明に落ちいる個をはげまし、助けるのが社会です。
 しかし、この社会は無明に突き落とされた人に、どんな手を差し出しているのでしょうか。
そして、無明に落ちいり大犯罪を犯した人を殺すことで無明は晴れるのでしょうか。
 冤罪のこと、死刑執行を行なう人の思い、量刑の矛盾など重大な問題を抱えながらも毎年行う複数の処刑。
そして、一向に減らない痛ましい事件。
「いのち」にとってこの世は、あまりにも冷たく、無慈悲で、傲慢な風情がただよっているのではないでしょうか。
ただ、死刑廃止じやなく、一切の殺人はだめなんだ、したくない、止めたい、という所から死刑廃止を切に切に願っているのです。


『いのちの絵画展』報告集
200年6月10日第1刷発行
      編集協力 真宗大谷派死刑鹿止を願う会
         発行者 木越 樹
    発行所 真宗大谷派宗務所
   
  〒600−8505 京都市下京区鳥丸七条上る
        TEL O75−371−9181(代)
真宗大谷派で、1999年4月1日から5月9日までの39日間、死刑判決を受けた人々の作品を展示する「いのちの絵画展」を真宗本廟・参拝接待所ギャラリーにて開催いたしました。
大谷派教団は、昨年6月と今回の死刑執行に際して、総長名による「死刑制度を問いなおし、死刑執行の停止を求める声明」を発表し、その具体的な営みの一歩として、「いのちの絵画展」は開催されました。

意見陳述書

2004年10月7日
原告  童銅 啓純


死刑とは命を絶つ究極の排除である。
我が愛する日本国もいくつかの理由を法整備して究極の刑を有し昨今毎年、実行している。
言い換えれば、「そこまでした」あるいは「そこまでやれば」お前を処刑して究極に排除するよと「そこまで」の線を引き、その線を越えたなら死刑判決を下す。
しかし個々の死刑判決をおしなべて照合すると「そこまで」の線は平等に真っ直ぐ引けていない。線の位置は漠然とした基準が用いられ、明文化されずできずに関わらず「越えた」と判断されたら処刑である。
仕方がないのか、あやふやな線で殺生与奪がある。

日本の死刑制度を維持する理由に世論がある、設問の仕組みもあるがどう見ても賛成者が多い。何故、世間や共同体が死刑制度を受け入れているのか。

厄介者を葬り去る(共同体から排除)ことに慣れているのか伝統があるのか。歴史には村八分に始まり、間引き、姥捨て山、差別、隔離政策等々の経験がある、これらもあやふやな線で行われていたに違いない。
厄介者を葬る時には明確なルールは使わない、これは常套手段であり、まして明確なルールを打ち立てたら都合よく利用できなくなる、優先するのはその共同体の安定とその時の思惑を包む暗黙の掟である。
死刑も同じである、しかし死刑制度、制度とある。

どんなに残酷な事件も背景はある、事が起きるまでの経緯もある、全て共同体の中での出来事である。私はどんなに醜く残虐で悲惨な事件も丸ごと抱え込む共同体の方が未来はあると確信している、丸ごと抱え込むとは何人たりとも排除しない事である。
排除しても根本は変わらない、悲惨な事件が起こる元を共同体の我々が見つめ社会全体で取り組まなければ同じである、排除では解決できない。
一つの例として、1993年、時の法務大臣後藤田は3年4ヶ月ぶりに死刑執行(排除)を再会した、それから今日まで44名が排除されたが悲惨な事件は後を絶たない。
我々の共同体は様々な因習的「排除」を克服してきた、しかし悪しき因習はまだまだ共同体に横たわり、排除する側される側の構図は時代と共に複雑となり残念ながら増えてきている。
もうよいのではないか、「排除」することで得られる安定と「排除」しなければ描けない思惑は、そして最たる「排除」の死刑制度も。

人はお互い連結し連動して手を結び合い築けるから共同体が成り立つ、例え不幸にも一部分的に手が切れても切っても切られても必ず誰かと繋がっている。
もっと引いて云えば「縁」である、幾重にも連結し連動している縁の御陰で成り立つ共同体。一枚の服、一口の飯の縁になろうとも意識を越えてでも結び合っている縁。
人は弱いものだ、ややもすると生かされて生かされる縁に大害を加え、断ち切る時もある、古今東西しかたがないのか。しかし部分が断ち切れても幾重にもある縁がバラバラになる事を拒み修復する、幾重にもある縁の中で「お前は死になさい」と云えるのは自然のみである。
死刑制度は知らぬ間に人々に回状をまわす。
「慈悲を捨てろ愛を忘れろ、人(国家権力)が一番偉いのだ」

裁判官殿、「死刑に値する」とはどんな意味があるのですか?
犯罪被害者遺族ならび関係者の悲痛な心中は本当に加害者の処刑で癒されているのですか?
「人類の叡智」は死刑制度、戦争を認めるものですか?

最後に
私たち四国フォーラムが行ったアンケートと後藤田著の「情と理」は別訴高裁判決において私たちの主張が正しく認定された、しかし何も変わらない、訂正も謝罪もない。
そんな馬鹿なことがまかり通るのか?
それと死刑執行命令にサインするのが法務大臣の職務と云われていることに一言、法には三つの法がある。
一、自然界の法
二、宗教界の法
三、人間界の法
冤罪、部分冤罪、死刑執行人のことも含め人一人を処刑する最終判断を求められる法務大臣は殺生与奪の法力を与えられる、しからば人間界の法のみに目を向けるのではなく、全ての法に目を配るべき、人一人を処刑するのだから。




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