〜農耕生活の定着で、この地域に農耕社会の発生をみたのは青の山東斜面、その地形
と日照・水利などから弥生期の農耕社会として好条件に恵まれた地帯は、十楽寺であろうといわれる。
これを裏付けるように丸山南斜面には弥生期に近い古墳層が存在していたと伝えられ、また、この付近で古くから採取される弥生期の遺物、土器・石器類の破片は、これを物語っている。次いで、鍋谷、山下、西町、宇夫階に至る比較的高台からも同遺物の破片が出土して小さな集落の定着が想像できる。
また、津の山から聖通寺山北側にかけても同遺物の破片が出土する地帯が点々とあって、宇夫階、聖通寺あたりは漁労生活が主と考えられる。宇多津地域に散在する集落社会は、讃岐で最も早く発達し、中潜地区の中核を成したものであろう。

弥生期の水田は、河川の流土砂・山水などで自然に形成された湿地を開拓して耕地としていたと考えられている。宇多津でも、山裾の谷間の小さな耕地から大束川沿岸に自然にできた湿地を除々に開拓していったものと考えられる。
このように宇多津地域に定着した集落は、数百年の歳月の中で興亡を繰り返し、氏族集団の有力な首長の下で政治的に編成され、地域周辺集団の影響、大和政権との開連などを保ちながら発展していったと推測される。
これは、次の時代で宇多津周辺に散在する古墳群を構成した氏族集団と深く関連するものであろう。


ー新宇多津町誌P5〜6参照ー



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