菅沢時代

2004.8.20
その一


1994年の春。山村の菅沢に引っ越した。
7年暮らした久米寺での凡百の縁を土台にして、新たな出会いを求めての所行、田舎暮し。
そこは、小さな谷の南向きの一軒家、高松市菅沢町苗代谷。市と付くが友人いわく「高松のチベット」、大げさである。

田舎暮しにあたり、いくつかの条件を揃え家探しを始めた。

1)自坊の宝林寺から車で一時間圏内の山
2)小学校が歩いて通学できる範囲
3)ぼんやりとある住環境

地図上に宝林寺を中心にしてコンパスで円を入れ、その中にある山間部の小学校の周りを探すのです、もちろんマンションやアパートなどなく、空き家を探すのです。
山間部は以外と空き家が有ります。空き家探しのコツは、縁故が無い場合は地元の生活者に聞くより、郵便配達の人に聞いた方が良い情報が入りました。また細い山道でも、奥に人家がある場合は必ず電線が道と平行にあります、電線を頼りの家探しです。
友人の尽力もあり、どうにか宝林寺まで約50分の所に空き家を借りることができました、もちろん小学校(高松市立東植田小学校菅沢分校)も近くにあり、住環境もそこそこでした。
斯くして、なにも知らずの田舎暮しが始まりました。


その二



「田舎暮し」と書いているが、何だろうか。
押し掛けられる側(田舎)からすれば「田舎暮し」の諸行はどう映るのか、もしかして「田舎暮し」とは傲慢な言葉なのかもしれない。
家の修理は大変だった。一見、すぐ住めそうと思っていたが、トホホの連続であった。しかし、大工の友さんと知り合え、大工仕事の楽しみ喜びを味わいながら着々と進んだ。

こぼれ話:早春の大工仕事。床下に冬眠中の日本蜜蜂の巣を発見、悪いが退いてもらわなければ大工が進まない。女王蜂ごと引っ越しを願う。巣の中には蜜があった、蜜が詰まっている一片を食べる、これが旨い。蜂には悪いが口の中で搾るように蜜を食べたのです。その内に旨いから刺激に変わったのです、さすが天然原液の蜜と思い込み、旨さと刺激を楽しんでいたら、次は口の中が疼きだすのです、なんと、蜂の針が歯茎にグサリと...。初めての経験でした。

私は「人畜無害」ですよ、と触れ込むことはしなかったが、謙虚なそぶりでこの地の生活が始まった。
標高400mほどの山間地、菅沢は想像以上に時節豊で有為転変だった。

必需品は長靴と懐中電灯と鎌や鉈や道具類だった。車は家先まで入れず、200mぐらいある、細い道が生命線。この道は谷に張り付けているようなもの手入れをしなければ、上からは土砂がザレ落ち、渡している木は川に落ちる。でも、車が庭先まで入れないのは、あまり苦にはならなかった、若かったのであろう。車が入れない事とは、物質的に謙虚な生活を送らざる得ない事だと、当時はそんなことを思考して送る生活も好い物だと思っていた(空いばり)。
話は飛ぶが1989年頃、2ヶ月に一度、奈良に出向いていた。自然農法の川口由一氏を交えての勉強会だ。一年を通して、稲作、畑作の実地講習。夜は参加者の多岐に渡るそれぞれの人生の話や思いや願いであった。
この一年があったからこその菅沢時代であった。だから、農のまねごともした。山村生活もまねごとだったのだろう。はなたれ小僧が兄貴のマネを繰り返しするように。


その三



当時の写真がないのが残念。
たしか8枚で約300坪の山に張り付く棚田を借りての稲作。川口さんにならい自然農法で半分、現行農法で半分で始めた。
この辺りの田んぼの水は、谷、せせらぎ、湧き水から竹の樋で引く、どの水口も冷たくて美味しい水だった。たまに上空に飛行機が飛ぶだけの山間深い田んぼは、言い伝えでは平家の落ち武者が切り開いたとか。まねごとでする農作業には最適だった。
たしか、三俵ぐらいの収穫が毎年あった。たった三俵か、三俵もか、の意見は分かれるが、人馬の力で田んぼを開いた先人の力。苗代から収穫実の時を経て、口に入る米の価値を肌で味わった。

こぼれ話:川口式(?)自然農法は不耕起、施肥せず耕さなず雑草も敵視せず味方につける農法。奈良の川口さんの田んぼはそれは見事だった。
それを童銅式でやってる田んぼ。苗が大きくなり、分けつも始まり人間でいえば中学生の頃。この日も田んぼに入り、中学生ではどうにもならない草草を鋸鎌で根から離し足下に置く、不耕起農法一連の作業。この作業中に不思議な物、発見。直径数ミリの粒がバラバラと田んぼ一面にある。よくよく観察すれば化学肥料だった。
ゲッ。農薬の次に位置する化学肥料が...。
拾いながら真相が読めた。
「嗚呼、溝渕さんだ、心配(収穫高)してくれているんだ...」
とても拾いきれる数じゃないし、溝渕さんの行為には複雑ながら感謝もしたのです。

溝渕さんは昭和元年生まれ、息子さんが大工の友さん。このお二人に非常に世話になる。山と田んぼと大工の先生。
チャボが走り、懐かしい佇まいの先生宅は母屋と友さん自ら建てた二階家、母屋には残り火絶えないオクドサン(かまど)があり、ここで戴く酒と先生の生活方式は慣れない農作業の私を心地よく解放してくれた。
椋鳩十の物語、山窩の世界に通ずる匂いがあるような滅び行く空間なのか、
純ナマの人間関係の安気さがここには在る。



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