仏教

2004.12.3

仏教の開祖はブッダである、二千数百年経ち様々なかたちで展開している仏教を真言宗凡僧啓純考えた。


真言僧侶には誰しも受け継ぐ師資相承があります。師資相承とは僧侶となる決意と得度をすました修行僧が四度加行(修行)を終え(成満)伝法灌頂入壇(密教の奥義を伝授)に際して行われるものです。この伝授で修行僧は阿闍梨と成り真言密教の継承者と成ります、これは真言宗寺院住職資格の必須条件でもあります。
私の場合は、隆仁大僧正に授かり隆仁大僧正は慈航大僧正に授かり慈航大僧正は智等大僧正で・榮嚴大僧正・照道僧正・済仁親王と続きここから三十四遡れば真言宗開祖の弘法大師となり弘法大師を含め真言宗八祖の(ここから中国、インドです)恵果阿闍梨、不空三蔵、金剛智三蔵、龍智菩薩、龍猛(龍樹)菩薩、金剛薩□(コンゴウサッタ)と続き、そして真言教主大日如来となるのです。(廣澤西院流相承血脈)系譜みたいなものです。大日如来、金剛薩サッタは作為の既存仏存在です、そして釈迦にはたどり着かないのです。

真言宗に限らず仏教各宗派は上記の様な構造は用意していますが釈迦にたどり着くのは禅宗系以外は少のうございます、しかし龍猛(龍樹)菩薩、本名ナーガールジュナに限り概ね各宗派は接点をまじ合わしているのです、故にナーガールジュナは八宗の祖と云われているのです。
ナーガールジュナは南インド二世紀頃の実存の哲学僧で中論本頌、六十頌如理論、空七十論等の中で「空」(般若空観)の思想を確立し初期大乗経典の礎石に多大に関与しました。

空とは原語「シューニヤター」の訳。「何もない状態」というのが原意である。これはまたインド数学ではゼロ(零)を意味する。物質的存在は互いに関係し合いつつ変化しているのであるから、現象としてはあっても、実体として、主体として、自性(じしょう)としては捉えるべきものがない。これを空という。しかし、物質的現象の中にあってこの空性を体得すれば、根源的主体として生きられるともいう。この境地は空の人生観、すなわち空観の究極である。

経典の中にも接点があります、真言宗、天台宗、禅宗、浄土宗が活用し何よりも一番慕われている経典の般若心経です、般若心経は色即是空の一節が有名ですがそれは単に字面の魅力かもしれません。
色即是空の前に「五蘊皆空」とあります、五蘊とは平たく云えば人間の諸処全体(存在)を色・受・想・行・識と振り分けた(パーリー語・五つの塊)ものです、その色(私の体・形ある物)だけが空なのでなく受(感覚)・想(表象・意識)・行(意志)・識(知識・認識)また諸法(もろもろの法・一切)も空だ・・・と「空」の境地を事細かく説いています。ようするに何事にもこだわるな、仏法・悟りにもこだわるな、煩悩の克服にもこだわるな、執着するな・・・です、そして空の境地がひらけ・・・最後の節、掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆賀(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸いあれ。とあり彼岸(彼岸とは?)に渡る智慧の(完成)心経の教えは終わるのです。

しかし真言宗祖師の空海の般若心経の解釈本、般若心経秘鍵を見ますと、「夫れ佛法遙に非ず心中にして即ち近し」と始まり(私はこの句は好きです)刻々と各節の解釈を繰り広げて(五つに分けその中でまた幾つかに分け解釈する)往くのですが「空」は空としての解説はありません、重きを置いているのは「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く一字に千里を含み即身に法如を証す」(これも好きです)の語録の前後から出てくる第四総帰持明分の大神咒 大明咒 無上咒 無等等咒(四つのマントラ)。第五秘蔵真言分の掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆賀に力を入れています。
この般若心経秘鍵を読誦すればこの辺りに盛り上がりを感じるのです。第四第五はマントラ(真言)です、マントラ(真言)は本来翻訳することは不可能な原語(神秘語?)なのかも知れません。
ようするに空海はこの般若心経(特に第四第五のマントラ・真言)をつねに読誦し、講義し、供養すれば、苦を抜き、楽を与え、修習思惟すれば、道を得(さとりを得る)、通を起こす(神通力をつける)と般若心経秘鍵に記しています。
そして最後の方を少し書き写し次は2500年昔に移ります。
・・・医王の目には途に觸れて皆薬なり 解宝の人は礦石を宝と見る 知ると知らざると何誰が罪過ぞ 又此の尊の真言、儀軌、観法は佛金剛頂の中に説きたまえり 此れ秘が中の極秘なり 應化の釈迦給孤園に在して菩薩天人の為に畫像壇法真言手印等を説いたまう・・・甘露を灑いで迷者を霑ほす 同じく無明を断じて魔軍を破せんー般若心経秘鍵ー
ー注ー「應化」がミソです。

仏教とは仏の教え仏とはブッダです。
ブッタがさとりを開いたときの心境をうたった詩(スッタニパータ)に「信仰を捨て去れとある」「捨て去れ」とはブッタ生存当時の諸宗教(信仰)を指していますが、宗教的ドグマからの解放を謳ったブッダが信仰を否定したのは歴史的事実であります。信仰とは神仏などを信じ崇(あが)め、経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度です。
ブッダの主な教えには縁起、四聖諦、八正道、無常、無我などがあり、これらの中には宗教(信仰)や神仏の崇拝や祈りや供具は無く、これらの思想は生きていく中で出てくる苦しみや悲しみや病老死への解決の仕方あるいは付き合い方そして人としての生き方を知らしめました。
根底に流れているのは縁起思想です。

縁起とは他との関係が縁となって生起すること。(Aに)よって(Bが)起こること、よって生ずることの意ですべての現象は無数の原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであり独立自存のものではなく、諸条件や原因がなくなれば、結果もおのずからなくなるということ。現象的存在が相互に依存しあって生じていることです。

四聖諦とは人生問題とその解決方法についての四つの真理を説いたのです。

四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)

苦諦
この世は苦であるという真実。
集諦
苦の原因が煩悩・妄執であるという真実。
滅諦
苦の原因の滅という真実、すなわち無常の世を超え、執着を絶つことが苦しみを滅したさとりの境地であるということ。
道諦
さとりにに導く実践という真実、すなわち理想の境地に至るためには八正道の正しい修行方法によるべきであること。

そして四聖諦の真理を踏まえて理想の境地に達するための八つの道の八正道を説いたのです。

八正道(八種の実践徳目)

正しい見解・正しい思い・正しい言葉・正しい行為・正しい生活・正しい努力・正しい気づかい・正しい精神統一

ブッダの仏教は、四聖諦の真理と八正道の理を絡めて無明を晴らし真理を理解する道を縁起思想で引き「さとり」に導くものであったのです。
その上ブッダは未来や死後や神秘的など、人が認識(誰しも調べることができ公開に耐えれ得れる根拠が必要)できる範疇以外は切り捨て(縁起思想外)問題にせず、尚かつ。神仏崇拝にまつわる神秘的なものに頼り依存して救済されるのでなく我々人間自身の自省と自照の中で真理の会得に励むことで救済されることがブッダの教えだったのです。

しかしブッダ入滅後仏教は宗教化して行き、ブッダの教えとブッダそのものが信仰の対象となるのです。
その最たるものは仏舎利(ブッダの遺骨)信仰です、世界中で崇められている仏舎利を集めればどれほどの量になるか...。
人間はつくづく豊かな存在です。

・・・凡僧啓純立ち止まります。

1200年昔の空海の時世。
1800年昔のナーガールジュナの時世。
2500年昔のブッダの時世。
昨日今日の時世。

私が僧籍に入った頃、老僧と云われるお方が何人か居られました、それぞれの大徳人格の中で共通しているところがありました、「それは信仰している姿」でした、御大師様(空海)なのか大日如来なのか御不動様なのか経典なのか、何を信仰していたか聞くことは今は叶いませんが、大正・昭和と生き抜いた御老僧には確かに僧侶としての存在の裏打ちが私には感じられました。崇敬の念。恭敬の念。畏敬の念。を取り混ぜたようなものです、念の客体は宗教的なものよりも「自然」的なものがやや強くと伺え、その為か念の主体の老僧は「和」の姿の袈裟衣がとても映えていました。

仏教はブッダよりこのかた「自然」の中、2500年の時を折々の空間と折々の時節と時勢の中で展開してきました結果、膨大な教義、経典、諸々を蓄積してきました。相反する教義もあります、ブッダと騙る教義、ナーガールジュナと騙る教義...しかし仏教の中で宗教戦争・異教徒狩り・排他的行動の原理主義は単発にしか台頭していないのは歴史的事実です。
もう一つ事実があります、今の仏教の姿です。


・・・凡僧啓純立ち止まり思考します。

イタリック・中村哲引用

臨済禅師
逢佛殺佛。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脱。

理 趣 経(百字偈)
菩薩勝慧者 乃至尽生死 恒作衆生利 而不趣涅槃 般若及方便 智度悉加持 諸法及諸有 一切皆清浄 欲等調世間 令得浄除故 有頂及悪趣 調伏尽諸有 如蓮體本染 不為垢所染 諸欲性亦然 不染利群生 大欲得清浄 大安楽富饒 三界得自在 能作堅固利





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