今の仏教


がんばれ仏教!という本があります、著者上田紀行氏は書籍冒頭はじめに以下のように記述している。

『がんばれ仏教!』というこの本のタイトルにまずあなたは驚かれるかもしれない。
がんばれって、いったい仏教の何を応援するのか。仏教を応援すると何かいいことでもあるのか。
そもそも、仏教なんて応援するに値するものなのか。
あなたがそんな疑問を持つのも分かる。日本の仏教ははっきり言って元気がない。応援したところでどうにもならないのではないか。それに、私たちにとって仏教が元気がどうかなんて、どうでもいいことではないか。だから仏教に期待もしないし、別に応援する対象でもないだろう。あなたがそう考えるのもよく分かる。
しかし、私はこの本で大胆にもこう宣言しょうと思う。
仏教に期待しょう。お寺に期待しょう。僧侶たちに期待しょう。
日本の仏教が、お寺が、僧侶たちが変われば、日本も変わる。と。
そして、日本の仏教を、お寺を、僧侶たちを変える力が私たちにはある、と。
しかし、私は今の日本仏教がそのまま続けば、期待される仏教に変身するとは思わない。それどころか、現在の伝統仏教はこのままだと衰退し、早晩、死に至ると思っている。

ショッキングな出来事があった。
三年ほど前のこと、「NPOとしての寺の可能性」というシンポジウムの基調講演に呼ばれたときのことだ。お寺という存在が単に法事や葬式を行う場ではなく、教育や福祉や村おこしやアートや国際交流といったNPO(特定非営利活動法人)として活動できるのではないかという斬新な提言が行われたシンポジウムだった。既に様々な活動を行っている寺の報告もあり、たいそう盛り上がった会になった。葬式仏教と 揶揄れる仏教だが、その場が様々な可能性に開かれていることが、参加者を勇気づけたのだ。
シンポジウムが終わった後の懇親会は、仏教関係の催しにもかかわらず、たくさんの若者がつめかけていた。私がショックを受けたのは、一人の若者のこんな発言だった。
「ぼくは寺の息子なんですが、よく『葬式仏教』って言われますけど、今のままの葬式を続けていたら、ぼくの世代が喪主になるころは、『もうこんな葬式ならいらない』って、坊さんは呼ばれなくなっちゃうと思うんです。ありがたくもないし、宗教的でもないし、家族の気持ちをケアするわけでもない。ぼくの同級生とかと話してると、もうそんな何の意味もないものならやめてしまおう、少なくとも坊さんはもう呼ばなくてもいいって言い出すように思えるんですよね。それで、『もうやめよう』っていう人がある割合になったときに、誰も坊主に葬式を頼まなくなり、すべてが崩壊するような気がするんです」
「日本仏教の未来と可能性」を論じてきたシンポジウムが終わった後のこの発言に、それまで伝統仏教のあり方を批判してきた私でさえ度肝を抜かれた。「葬式仏教」と批判されているうちはまだいい。葬式と法事しかやらない「葬式仏教」が「葬式」すらできなくなったときに、今の寺はほとんど死に絶えるだろうと彼は言うのだ。
この話を開いても、多くの仏教関係者はにわかには信じがたいだろう。「そんなことあるわけないさ」とまずは否定するはずだ。「葬式には僧侶が必要だ」「寺はこれからも続いていく」という前提のもとにすべてを考えているから、仏教が死に絶えることなど考えもよらない。「諸行無常」、すべてのものは変化の中にある、という教えを根本に持ちながら、何となく仏教はこのまま続くのではないかと思い込んでいるのだ。
おそらくその若者も仏教系大学の仏教学部に通っていたら、誰も寺に葬式を頼まなくなる時代が来るのでは、などとは思わなかったかもしれない。しかし、彼が通っていたのは伝統校でありながら先見性のある試みで有名な関西の私立大学だった。そして彼は次の時代を切りひらくという気概に満ちた学生たちの中で、「寺を継ぐ」とはどういうことなのかを問わざるを得なかった。自分の立場を友人たちにも説明せざるを得ず、周囲との交流の中で深い危機感を持つこととなったのだ。
言われてみれば、私自身も葬式と法事には大きな不満を持っている。菩提寺は浄土真宗だが、その若い住職は法事に来てもほとんどしやべらない。到着して「こんにち」。着替えて仏壇の前に座って「みなさん、こちらに」。その後、浄土真宗の教えをまとめた『正信偽』のリーフレットを配って、一緒に唱和するが、その後は説教もいっさいなしで、「それでは、これで」。お布施をもらって「どうも」。そして再度着替えて「さようなら」。家に入ってから出るまで、五回しかしゃべらない。お経以外は口を開くのは正味四、五秒くらいだろうか。そして決定的なことは、彼を見ていても彼が仏教を信仰しているとは全く思えないし、宗教者としてのオーラが全くないのだ。

そんな僧侶でも、私の叔父夫婦は僧侶と関わりたくないほうだから、「めんどくさくなくていい」と言っている。しかし私と妻は、彼ではとても自分たちは成仏できないと確信しているので、自分たちが墓を預かるようになったら、お寺を替えようかと考えているところだ。
お寺を替える、もしかしたら宗旨も変わるかもしれない。そこまでは私も考えたことがあった。
しかし、葬式や法事に僧侶を呼ばないことまでは考えてもみなかった。それは幸いなことに、私はこの人なら自分の葬儀も任せられるという、尊敬できる僧侶を何人か知っているし (もっとも彼らは私よりも年上だというのが問題なのだが)、様々な文化を研究する文化人顆学者として「どの文化でも葬式には宗教的職能者が必要だ」と自動的に考えてしまうので、頭が「保守的」なのだろう。
しかし、その僧侶の卵の若者が言っているのは「葬式に僧侶が呼ばれなくなるかもしれない」という、より過激な可能性なのであった。

しかし、そう言われてみて、そんなことは絶対あり得ないと否定できるだろうか。例えば田舎の寺のように、檀家と僧侶が普段から親しく、亡くなる前に十分な交流があったり、死を迎えるケアにも何かと関わったりしているならばその葬式にも必然性があるだろう。しかし、田舎であっても都会であっても、菩提寺とほとんど交流がなく、死んだ後にほとんど知らない僧侶がやってきて、その葬式が宗教的に格調高いわけでもなく、遺族へのケアが行われるわけでもなく、単にお布施と戒名料が請求されるといったような場合は、「もうこんな僧侶は葬式にはいらない」となってしまう可能性はある。そして、そう考える人が人口の一〇パーセントでも出てきたときに、それは早晩二〇パーセントにも四〇パーセントにもなり、劇的に増加するかもしれない。「ベルリンの璧」が崩壊するまで、そんなに簡単に共産主義が崩壊すると考えていた人はいなかった。
しかし、壁があっさりと崩壊したときに分かったのは、壁が崩壊する以前に既に内部的な崩壊は進んでいて、もう体制を維持するのが難しくなっていたということだ。共産主義国家のシステムはとうに麻痺していたし、形骸化していた。人々の心はそこから離れていたが、それに対して反旗をひるがえすことのリスクから、いやいや今までの伝統に従っていたわけだ。
ある一つのきっかけで、一気に崩壊が進む。「葬式仏教」にその可能性がないと言い切れるだろうか。

葬儀業者はこうささやくかもしれない。「お坊さんを三人呼ぶと四五万円かかります。でも、読経をテープにすれば三万円です。そのかわり、故人の人となりと生涯を会葬の方にも分かっていただき、遺族の方々のお気持ちにもケアが行き届く、専門の教育を受けた葬儀コーディネーターを一〇万円でご用意できます。そちらのほうが皆さんもむしろ敬虔な気持ちになり、ご遺族も会葬者もご葬儀に対する満足度が高いと、このごろは評判なんですよ」。
死に臨んだ者のケアもできず、残された家族のケアもできず、人格も品格も仏の慈悲も何も感じられないような僧侶の場合、その将来に希望を持てというほうが難しいだろう。本当に納得できる葬儀を求めて、葬儀の形が大きく変化する可能性は十分あるのだ。

医療においても、威張っているだけで患者に適切な説明もせず、技量も低い医者や病院は淘汰される時代にとうの昔に入っている。コストに見合う満足度が得られない病院は厳しく批判され、患者からの信頼を失った病院は廃業に追い込まれる。行政に対しても、人々は厳しい目を向け始め、税金が無駄に使われていないか、満足度の高い行政が行われているかが大きな問題になっている。
葬儀を求めて、葬儀の形が大きく変化する可能性は十分あるのだ。

寺だけが、その流れを免れられると思ったら大間違いだ。日本仏教にとって、今はベルリンの壁の崩壊直前かもしれないのだ。
「がんばれ仏教!」、私はそんな深い危機感の中で瀕死の仏教に対してこの本を書こうとしている。
しかし、これまで「がんばってきた」仏教もあった。第二次世界大戦後の日本を振り返ってみれば、元気な仏教もあった。在家仏教教団、いわゆる新宗教教団の中で仏教をベースとしているいくつかの教団である。創価学会や立正佼正金、霊友会などの教団は、その活動に対して好き嫌いはあるかもしれないが、「がんばってきた」 ことに異論のある人はいないだろう。
それに比して、お寺の仏教、伝統仏教は本当に元気がない。そして、このままだと本当に滅んでしまうかもしれない。いや、もう宗教としての伝統仏教は既に危機状態である。教団や寺はある。
しかし、人々から何も求められない。苦しんでいても、伝統仏教に救いを求めようとは思わない。
人々から何も求められず、法事のときのお布施の額だけが気になる宗教など宗教と呼べるのかと考えてみれば、教団は存続しているが、既に宗教としての根本は崩壊しつつあるとも言えるのだ。
「諸行無常」、すべてのものは変化の中にある。もし仏教が時代的な使命を終えたのならば、それが滅んでいくのもまた自然なことだ。しかし、この本で私はあえて「がんばれ仏教!」と言いたいのだ。仏教には大きな使命があり、ここで滅んでしまってほしくないと心から願うのだ。
しかし、伝統教団の人たちが深い危機感を持っているかといえば疑問である。あるいは、危機感はあっても何か行動に起こそうとしているかは大きな疑問だ。
私は仏教関係の教団や団体から講演に招かれることが少なくないが、多くの講演で訊ねられるのは「二十一世紀の仏教には何が期待されているでしょうか」とか「現代の寺に求められるものとは?」といった質問である。最初のうち、私はその問いに丁寧に答えようと必死に努力していた。仏教には未来に向けてこんな可能性がある、あんな可能性がある、といろいろな提言を試みてきた。しかし、じきに私は虚しくなってくる気持ちを抑えきれなくなってきた。
仏教には未来に向けての可能性があると開いて、僧侶たちは悪い気はしない。「今日の講演では仏教の新たな可能性をお示しいただき、たいへんありがたく感じた次第であります」「まだお若い世代の先生から、仏教への共感をお聞きできるとは、存外の喜びでございました」等々、「ありがたい」発言が続く。しかし、ならば実際に何かが動き出すのかといえば、「?」だ。参加者たちは仏教の可能性があるということを開いて、ホッと胸をなでおろし、安心する。しかし、何の行動を起こすわけではない。例えばそれが会社ならば、多くの社員は「その可能性に向かって自分たち一人ひとりにできることは何か?」とすぐに考えるはずだ。しかし、僧侶たちの間には自分こそがその行動を起こす当事者だという自覚は極めて薄い。仏教には未来がありそうだ。ああ、安心した。誰かがきっとやってくれることだろう、というわけだ。しかし、それならば私の講演は単なる「気休め」にしかすぎないではないか。そしてむしろ気休めが与えられることで危機感が薄れ、何の変化も生まれないのでは、全くの逆効果ではないか。
なので、私はあるときからはっきりと答えるようにしている。
「二一世紀の仏教には何が期待されているのでしょうか?」
「何も期待されていないでしょう。そもそも期待するに足るものだとも思われていないと思います」
「寺には何が求められているでしょうか?」
「何も求められてはいないでしょう。そもそも、私たちの求めに応じて動くという態度をこれまで寺は示してこなかったし、何かを求める対象のうちに寺は入っていなかった。また、何かを求めたところで、その能力があるのかどうかも疑問だと思っている人がほとんどではないでしょうか」

現在の仏教のいちばん悲惨なところは、人々から何も期待されていないところだ。期待するに足る存在だとすら思われていない。「どうせこんなものだろう」とあきらめてしまっている、というか、最初から期待感がないので、あきらめすらないというべきだろうか。
期待もされていないから、本質的な批判もなく、自分たちを問い直す契機もない。期待もされていないから、優れた人材も集まらない。期待もされていないから、その期待に応えようと努力もしない。期待もされていないから、自分たちが何をしているかの情報公開もない。
こんな状態が続けば、日本の仏教は早晩死ぬ。これだけ期待もされず、しかしそれをいいことに、改革も努力も放棄してのうのうとしているのであれば、状況は絶望的だ。最初から感性の鈍い人間たちが集まっている業界なのかもしれないが、この状況にしてなおかつ新しい動きが出てこないのでは、寺の仏教は既にその使命を終えたといってもいいし、諸行無常、滅びて当然だろう。

しかし、ならば私はなぜこの本を書こうとしているのだろうか。それは、私は仏教が使命を終えたとは全く考えていないからだ。それどころか、仏教にはこの時代だからこそ与えられた大きな使命があると信じているからに他ならない。

今、日本社会は元気がない。長期にわたった右肩上がりの経済成長の中で順風満帆のように見えた私たちの社会は、困難な時代を迎えている。毎年の自殺者は三万人を超え、若者から中高年まで、一人ひとりに生きることの辛さが襲いかかっている。それは単に不況のせいではなく、社会の崩壊はもっと根源的なところで生じていることに私たちは気づいている。しかし、それがいかなる崩壊なのか、そしてどのように再び歩み出せばいいのかが分からず途方に暮れている。
この困難な時代に立ち向かい、未来を切りひらく行動が今、求められている。そして、私は仏教がこの時代の使命に大きな貢献をもたらすことができると信じているのだ。
そんなこと信じられないと思うあなたの気持ちも分かる。しかし、私はこの時代の苦悩に向かい合い、新しい行動を起こしはじめている僧侶、そして寺を知っている。彼らは現在の仏教の絶望的な状況を痛感し、大きな気概を持って、新たな一歩を踏み出そうとしている。それは仏教界全体からすれば、まだ少数派かもしれない。しかしそこには明らかに未来に対する希望がある。      
時代に向き合い、渾身の力で前進しょうとしている僧侶たちや、「こんなに面白く、活気のある寺があるのか!」と驚く、新たな寺のあり方に出会ったとき、私たちの仏教に対する見方は大きく変わることだろう。まだ諦めるのは早すぎる。そこには大きな可能性があるのだ。
これから私はその希望を語っていきたい。そして瀕死の仏教に「がんばれ仏教!」と心からのエールを送りたいのだ。



上田紀行著 がんばれ仏教ーはじめにー全文記載ー
段落・改行は読み易く変更しました。
それにしてもscannerはすごい手打ち入力ならばたちまち頓挫です。

感想
今年の梅雨頃かな、毎日新聞でこの本が紹介されていた、昔の愛読者として懐かしく思い記事を読んだ。上記の内容が短くコメントされていたのだ。「葬式にも必要されなくなる坊主...」上田氏の予見は現場から見てもあり得ることだ。
強力な村社会の仏教界、フーム...無断掲載ですがエールを下さい上田さん。


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