仏教その二

2005.6.21


二十年前の修行時代に使っていた教科書ー仏教綱要ーの中にブッダと密教(真言宗)の記述がある。かいつまんで説明すると、常のブッダが説いた教えが顕教(密教以外の仏教)で、ブッダが大日如来三昧に入って説いたのが密教であるというのである。(全文掲載)
私は大日如来を要しての密教の体系は好きである、いつかは自分の言葉で解釈もしたい。しかしこのブッダとの関係は不可解だ。

現代の未来の仏教を考えるならば、今もこの先も仏教の核として息づくブッダが証し残してくれた数々の思想を捉え直す必要が迫ってきたと私は思う。その為にも初期仏教の不明瞭な側面に各独自の思惑を入れ込むことを止め不明瞭は不明瞭として展開して行く誠実さが求められると思う。

衣食住を元として人間の営みは千年遡れどもブッダの時代と云えども現代とさほど替わらないと見て取れる、しかし営みを司る意識と環境は余りにも変化している、営みに使うエネルギーは桁違いに変わり簡単に手にできる(享受)エネルギー革命以降いかにより以上のエネルギーを簡単に楽に手にするか(与えるか)に集中してきた。
例えば我が家の真新しい風呂はボタン一つで風呂となる、このかた四十四年薪風呂であった私は風呂のボタンを押す、するとボタンの横から「オ風呂ノ蓋ハシマシタカ?」とアナウンスがある。ビックリシタ...簡単に楽に...今までの風呂を沸かす一連の手順は無いが風呂を用意するのはボタンではない。
エネルギーが簡単に楽に与えられている中、何事にもあるそれぞれの手順がボタンになってきた。ボタンのデザインは地球の恩恵を忘れさせ、何事にもたずさわる面々の人の縁を無視する。しかし後戻りは誰も望まない。

先人の願望と叡智は荘厳な仏閣を造り出してきた、その時代背景にはボタンはない、エネルギーは人馬と木炭のなか日々生活を丁寧に送っていた、丁寧とは手順を踏んで行うことである衣食住どれをとっても手順が横たわり手順を間違えれば前に進まず、手順を人に任してもエネルギーが小さいからその手順は見えていた。
お陰様とご縁と云えばいいのか、ありありと一蓮托生と云えばいいのか。
聖徳太子の仏教興隆から鎮護国家そして救済と極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く行き渡り日本は確実に仏教の根を張り巡らした。根は以前からあるものやら周辺を吸い上げ数々の信念・教義を生みだし芽吹き花を咲かしてきた。
花は咲いた。

ブッダの一つの種が衆生百感の土壌の上に。花は、根が故郷で家が拠り所であった近時代までは現実感あふれていた。

ブッダの種はまだあるけれど色香漂う花は咲いた。千年続く色香を具現し守ってきたのは僧侶なのか衆生なのか。色香漂う花の実は「仏」ではなく芸術(卓越した木造建築・魅了の彫像...)と文明(仏教伝来と仏教栄華の中で高度化した各方面の所産)なのか。

かけだしの頃、米三合の布施を頂いた事や夏の施主宅で終始そよそよと団扇であおいでくれたばあちゃんの姿など今では味わえない事を私は昔々の日本の風景につなげて考えてしまう。

その出発点は仏教伝来時までさかのぼる、日本に入ってきた仏教は中国経由であり中国は仏教を自国語に訳して仏教をつかんだ、ひとつの体系を自国語に訳し取り入れることは単に翻訳されるだけでない暗に当時のあらゆるもの要素が入り込むみ、ましてや当時の中国の仏教徒は仏教経典を自国語に翻訳することにこだわったと見受けられる(日本の経典は漢字がほとんどなのです。となれば日本は翻訳を怠ったのか?)。こんなことを推測すればもしかして日本の仏教徒は仏教の起源には興味がなかったのか、仏教のテーマをどう考えていたのか、千数百年も前のこと..。

長々と書いてしまった。
世知辛く、お陰様もご縁も遠のいて行くこの頃、それなのにお陰様とご縁に支えられ咲いた花の色香に酔い続けお陰様とご縁をいつまでも食い物にする。
と書けば言い過ぎかも知れないが、仏教は日本で日本なりに根付きこの方、多方面の役目を担ってきたのは事実だが、今現実の役目はと見渡せばお寒い、確かに葬送の役目はあるがこれとて、葬祭業の台頭に僧侶がどれだけ胸を張れるかおぼつかない。情けないが私はほとんど言いなりで動いてしっまているし、葬儀・年忌廻向を信念を持って執り行うというよりも檀信徒の要望を最大限聞き(無理なときもある)御の字を渡せ頂くことで手が尽きている。
観光寺院は保守点検維持はたいへんだが テーマパークじゃないけれど生きている宗教とは思えない。
このページの発端は仏教(日本の)が宗団が語るブッダとの関係に違和感があることだった、我が身を棚に上げてのことで説得力に薄く稚拙な思考だが、この違和感を探ることでレトリックに覆われたものから解放され真のサンガ(僧伽)、今の僧伽(寺)の存在意義が見えてくると思う。いや現在まではハード面の構築でありこれからはソフト面への過渡期かもしれない。
小中高等大学...全教育機関数の約二倍ある寺院の数、学校と同等に地域社会上立地条件は概ね素晴らしくキャパシティー は実績がある、この現実がこのまま形骸化するとも思えない。






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