仏法僧

仏法僧とは
仏と法と僧を三宝という。
三宝とは

三つの宝の意。仏と法と僧。さとりを開いた人(仏buddha)と、その教え(法dharma)と、それを奉ずる教団(僧sangha)という三つをいう。
仏(さとりを開いた教えの主)・法(その教えの内容)・僧(その教えを受けて修行する集団)の三つを宝にたとえた語。これは仏教を構成する三つの大切な要素である。三宝に帰依することは仏教徒としての基本的条件である。
これらの三つは別のものとしてみればそれぞれ別個であるが、しかし本質的には一つとも考えられる。また釈尊亡き後も三宝はあるべきであるから、その点で、仏像と経巻と出家とを三宝ということができる。

中村元著仏教語大辞典



2005.4.21



仏教には数多の仏様がおられる。
道ばたのお地蔵さんから奈良の大仏様、各寺院の伽藍の内、各家庭のご仏壇の本尊、脇佛。どの仏様も姿が在りお顔が有る。
石、木、土、金属などで表した仏像や、紙、布に描かれた画仏など言い換えれば全て「偶像」であり偶像崇拝である。

特に真言密教は卓越である。お里はインド、ネパール、チベット、シルクロード、中国などインターナショナルだ。そして日本古来の神々をも一味に加える。各ほとけ様には持ち場があり多種多様な器量を備え、人間界の三毒八万四千煩悩を請け負う。名はもちろん有り、その上その仏を個々に表す梵字まで用意されている。

仏の原初は釈迦であるが釈迦が、偶像に頼るようなことは史実にない。
現代人類ホモ・サピエンス以前のネアンデルタール人の骨が墓に埋葬され供物をささげられ祭られた実例がいくつか在り、同時期に芸術創造も生まれた(洞窟壁画)。
今から10万年も昔である。
仏教に限らず宗教は具体的な装置が内在する。10万年も昔の墓も然りだ。その装置に芸術的要素が入り包みこんだのは人として自然の成り行きだろう。宗教と芸術はお互いに手を取り合い、進化して来た。
古今東西、宗教は芸術と密接に結合して、教義に則り、各々の風土の中、真理に近づく事を希求して信仰の芸術的精錬を重ねて来た。偶像もそのひとつである。
日本列島の中、入り交じり溶け込んでいる偶像仏像。改めて考えず、敬虔に手を合わし、唯ありがたく祭っていればいいのかもしれないが、私の立場でそれだけに済ませば、場合によれば××行為と云われても仕方がない。それよりもなによりもそれだけでは御本人(仏)に悪いような気がする。願いを頼む御方ですから礼儀は当然だけど、もっと仏様の御立場を思えば「それだけじゃ、ないんだよ。私の役目は。」と聞こえるかも。仏様にも係や当番があるから一概にいえないが。

偶像あるいは偶像崇拝を厳禁、否定もしくは避ける宗教がある。あるいは現在は肯定しているが過去は否定。またその逆もあるが、いずれにしろ、どの宗教も否定か肯定かのどちらかである。
偶像を否定する信仰は、人間が創った物(偶像)に真理への仲介はできないと思い、○○○の唯一性、超越性を重視するにも必要悪。あるいはそれ以上に「たばかる代物」と蹴散らし、涜神罪(神をけがす罪)をも用意する。
崇拝するのは唯一○○○と教則を定め、○○○は人間を超えたものであるから、人間が○○○を具体的に造ることは不可能である。 人間の作ったものあるいは存在物は有限であり○○○の代わりに成れない。
まして唯一の○○○以外に架空の○○○を創る事とは何事ぞ、と言い立てる。

一方、偶像を肯定する信仰は、偶像を崇拝することでいち早く真理へ導かす為にあり。○○○は見えず解りにくい。「祈る・拝む」などの礼拝の対象として偶像ほど「アリガタイ」ものは無いと思い。
あるいは偶像そのものを拝むのはいけないが、それを通して○○○に祈るのは良しとする。
偶像をどうとらえるかは各宗教によって大きく違う、しかしどの宗教も偶像崇拝を意識しているのは間違い無し。

それでは偶像崇拝の定義は?人の形、目がある、存在物等々。つまるところ、「物に頼る」ことではないか。信仰とは頼るものだ。何に依存してすがり世話になるか。その上、何に帰属しているかも問われる時もある。
人間の心は世界中同じである。喜怒哀楽は同じスイッチで動く。違いはスイッチの形状の問題でなく、己でON ・OFFができるか、それともあやかる帰属のひそみにならってするのか。

2500年もの昔ネパールのルンビニーから生まれ沸き起こる仏教は西にはあまり行けず、北へ東へ東へ諸々の風土と土着の精神の中、遍歴して終着点の日本にたどり着く。伝播するスピードは驢馬の足と帆船であるから、渡来した仏教が様変わりしているのは仕方がない。
仏像も同じ旅を重ねて来た。時代と風土で容姿が変わり、数も増えて来る。なんだかんだしながら仏教は日本に根ずき、仏像はますます需要を延ばし、供給側は力を発揮する。
世界で展開する仏像の中で日本の仏像の容姿は何処か違う。インド料理、ベトナム料理、中華料理などなどあるように、日本料理もある。この違いは必然なのか。一時が万事そうであるように、気候風土と絡み合い、それぞれ適した表れ方なのか。
優劣は無い。
釈迦から始まり、極東の行き止まりの日本列島で釈迦が望み、営んでいたものとかけ離れた形で展開している仏教。もし、お釈迦様が今おられたら、偶像破壊論の旗をふる事は間違いない(だろう)。

仏像は宗教的装置である。仏像を媒体として仏像の背後にある本物(真理)の世界を衆生に知らしめる為にある。真理追究の道具が偶像自身の役目のはず。しかし錯覚する、偶像が本物(真理)だと。そして、早とちりの衆生と悪食な社会の意志を吸収してしまう。
偶像と真理をすりかえることもする。
詮無いことか。

本質への追求は感覚的な美と独立して存在することができない。真理追究と云う、腹もふくれぬ事をやるには少しは面白くなければ付いて行けない。美しい観音様の前では立ち止まりたくなり、恐い閻魔さんは避けたくなる。
ラジオ、テレビでもいい、ようするに受信機と考えればよいのではないか。聞こえず見えずの真理や死の恐れを受信する。大きいほど、美しいほど、古いほど、感度が良いのかもしれないし良さそうに映る。あるいは、人気がある物は評判がいい。管理、運営はこちら側であり、チューニングは難しい。日々の精進が無ければ馬脚を出す。チャンネル権はこちら側が握って受信料をいただき、おまけに役にたたない(?)受信機を開発しては値を付けるお方も居られるかも知れぬ。どちらでも善い事だ、五大願さへあれば。

私は興福寺の阿修羅が好きだ。
脱活乾漆(だっかつかんしつ)の影響なのか、重さを感じず、小柄な体は異国の衣装と天衣を架け、何千年も神々と戦闘してやまず、月や太陽にも挑む悪神の神話を持つ異国の神。
後に釈迦に諭され仏教の守護神となる。戦の神、阿修羅。
阿修羅は何を託されこの世に偶像として送り出されたのか。細く伸びた六本の手は空になり、三つの顔は空を指し、眉で語りかける。

戦争かもしれぬ、平和かもしれぬ。どちらを選ぶのか、でもない。衆生が去るまで永遠に語りかけて来る。ちぎれた指も語る。煤けひび割れた体も語る。




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