宝林寺


その一

宝林寺の縁起は定かでない。在所は四国霊場八十八箇所八十番札所国分寺の東隣りにあり、宝林寺と国分寺は特別史跡讃岐国分寺跡の中に在る。
天平の昔歳からある国分寺に隣接していることは宝林寺も1200年と続く法灯の中に縁があり今があることかも知れぬ。
こじつけても仕方がない。俗説には350年の歴史があるとか。たぶん昔の国分寺の塔頭寺院(たっちゅうじいん)か隠居寺か?

境内にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)には宝暦八年(1757年)とあり、1970年に取り壊した際の畳の板べりには嘉永六年(1853年)の銘があった。
円林坊と呼ばれていた時代もあり、宝永年中(1704〜1710)に願いでて寺号免許され、宝林寺と称するようになった。
宝林寺の過去帳に祀られている一番古い戒名には正徳元年(1711年)とある。
あながち俗説もまんざらでない。
その二

古い航空写真がある。その白黒の写真と私の原風景とはさして変わらない。樹齢300年は有に越す松が広い境内を埋め尽くす。八十番札所国分寺。その東隣りに位置する宝林寺は竹やぶに囲まれ、辺り一帯は田んぼでのんびりしたものでした。
それが国分寺町は調整区域外(?)といつの間にか成り。町内の田んぼはこの20年で家が建ち並ぶ様となり、立派な道路がたくさん走り貫いた。
だが宝林寺の周りは天平時代からある讃岐国分寺跡特別史跡と指定され、田んぼを潰して東西220m南北240mが公園みたいになった。
公園(?)のまわりは依然宅地化が進み、それはそれは宝林寺にとって、この環境の変化は計りしれない。
父は散歩が好きだった(まだ入滅していない)。新興住宅街となった所は散歩コース、いつか不審者に間違えられたとか、私もうかうかできぬ。
宝林寺を囲むように広がる広大な公園、公園の周りを今風の家が囲む。
国分寺町は町を挙げてこの公園(特別史跡讃岐国分寺跡)の活用を考えている。
やはり、宝林寺もこの流れに乗らなければ。
以前のままなら、ゆっくり煙草でも吹かして身なりも気にせず徘徊できたが、そうは行かなく成り、座り心地も悪い。
そこでまず、足固め。1970年に建て替えた宝林寺は本堂も庫裏(住職の住まい)もひとつに収めた小さな寺である。
前住職(父)は裏に隠居の家を建てた、しかし私は寺の中で住んでいる。
行事がある度、家財道具の移動でたいへんだ。そこで庫裏を建て周辺の整備をする事になった。
その三

宝林寺はいわゆる檀家寺です。
真言宗の成り立ちは死者の弔い・供養などは関与せず、時の権力側に立ち朝廷安穏、鎮護国家、五穀豊穣、願望成就など加持祈祷を主としていたらしく、持てる、大寺は広大な寺領を手にして、仏閣は安寧の希求を満たす為により荘厳さに勤しみ、よろず世の常、宗教施設装備用具はリアルだが突き詰めていけばバーチャルなのか。
明治の廃仏棄釈、戦後の農地解放で寺領のほとんどを失い真言の寺も一部を除き、中世末期に自然に成立した檀家制度に頼らずにはなり立たなく成る面がでてきた。
余談。寺領の名残が嬉しい事に宝林寺に...ありがたや。

檀家に呼ばれ先祖供養などに出向く、風呂敷包みを持ち。
やはり風呂敷が好きだ、まちがってもアタッシュケースは私には持てない、しかしこのアタッシュケースが良く似合う方もおられる。
4WDのワゴンで檀家に向かう、ほんとうはロバで行ければと夢をみる。
車がボロなのでせめて法衣は昔ながらの羽二重で極めたい、化繊の衣は着心地が悪く衣擦れの音が違うし典雅でない、真っ向勝負で亡骸を弔う役目、おのずと風姿は決まる。
「等閑斜に構えて死者を観ず」でも、誰も判らないし亡者も目くじらを立てない。
しかしながらひとたび檀徒のかばねの霊前に座し、はてと、法衣を繕い護身法の印(いん)を結び真言を称えれば、そこには紛れもなくお布団の中に顔があるむくろが寝ている、遺族に申し出て白布を取り御遺体に会う。
等しく話しかけ失礼ながら頭も撫でる。この所作は最近たいていの仏さんと交わすノンバーバルコミュニケーション。
亡きがらの枕辺で深く考えなく、枕経を読経していた時には感じ得なかったやる気、やる気と言うのもおかしいが。
大事な大事な「いのち」の終焉に対しての祭司の役、引導の導師の責務の存在を痛感する。
見事に亡者をあの世に葬送して頓証仏果成仏させてみせるとはまだまだ到底言い切れないが、死者と正面から等しく付き合えれば、葬式仏教と揶揄されていることがバカらしく映る。まだまだ修行が足らぬが。


その四

1970年。何百年も建ってたと思われる寺を取り壊しました。私が10歳の時でした。長々とある縁側ややたら広い土間、ぶきみな部屋や使わぬ部屋は竹が畳をもちあげ、天井には太い太い梁が幾重にかさなりそれはそれはりっぱな(幽霊屋敷)寺だったと記憶している。
そのおびただしい柱や梁は裏の空き地に高く積まれ、檀家のおじさんが鋸と目立てヤスリと油をさげて風呂の薪に変えていったのです。その薪は我が家の風呂を10年間焚き続けた。
毎日毎日、手鋸で引き続けるおじさんは2000年春90歳で亡くなった戒名は花月如繁居士、引導は私が務めた、その後なにも異変がない所をみれば無事、成仏していただき蓮のうてなで鋸の目立てをしているのかもしれません。
山のようにあった、ふる材を鋸ひとつで片付ける仕事を、子供ながら「すごいなー」と感心していたことを今でも憶えている。    
 一切恭敬敬禮常住三寳


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