白隠禅師座禅和讃
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2005.2.7
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白隠禅師(1685〜1768)は日本臨済禅中興の祖と言われ数々の著作があり禅画でも有名である。詳しくは花園大学国際禅学研究所HP白隠学研究室http://iriz.hanazono.ac.jp/index.ja.html 座禅和讃は白隠禅師の著作の中でもっとも知られ、 現在では臨済宗の寺院ではよく唱えられているらしく、 臨済宗では一種の信仰的旗印との考えもある。また臨済宗宗内での見解もいくつかあるようだ。 ここでは唯、純粋に真っ白な五感になったつもりで解釈を進めればと思う、「衆生本来仏なり」なのだから無理はなかろうかな。 私がこの和讃に出会ったのは1990年である。 座禅和讃和尚ラジニーシ、白隠禅師を語る(瞑想社発行)という書物だ。 1980年代の青春に影響を受けた「存在の詩」など思い出せば懐かしいバグワン・シュリ・ラジニーシ。解釈に当たりどうしても引用、模倣は許してもらいたい、俗にパクリだが共鳴まったく同感の部分は同じ語彙となる。いいわけがましいか。 一字一句に反応するのでなく一字一句に感応して 衆生本来仏なり 衆生とは人間のことだけでなく山川草木森羅万象のことであります鳥も犬も石も生きとし生きるの、ありとあらゆるもの。 仏とは真理を悟った者・すべての煩悩を打ち消し、完全な真理を実現している者・覚者などと言われるがそれは「仏」を対象化した言葉であり、主体の目標、我の願望、2500年の歳月の中、引く波寄せる波はあれども、手の届かない所に引き上げ価値あるものとしたシンボルライズかな。 和尚ラジニーシは仏とは、意識それ自体に帰ってきた意識だと伝える。 意識それ自体に帰ってきた意識 それはもはや夢のなかをさまよわず もはや未来や過去のことを考えていない 思い出や想像などに取り憑かれていない意識 過去を除き、未来を除き、ただ現在だけがある意識 この瞬間に生き、完全にいまここに生きる意識 それは敏感で、目覚めていて、まばゆいばかりに輝いている。 嗚呼簡単だ。ただ現在だけがある意識、この瞬間は煩悩や妄執も引っ付いていない、煩悩や妄執に囚われると言う、「囚われる」とは何が何を捕らえるのか、相手は居ない一人芝居である。〜取り憑かれていない意識も同じだ。唯、「意識それ自体に帰ってきた意識」・「瞬間の意識」、聞き慣れないフレーズに戸惑う。 「瞬間の意識」とは、花を眺める「ああ〜綺麗だな」「ああ〜いい匂いだな」この瞬間は覺者も凡夫も同じである。覺の字義は目の前がぱっとあきらかになるとある。凡夫も目覚める瞬間も目の前がぱっとあきらかに(感じる)時も多々ある。目覚める瞬間の優劣・価値・意義を問えば然るに思惑となり「仏」から離れる、「仏」自体には優劣・価値・意義はない。「仏」に如何にして近づくかあるいは成るか(成仏)を問うから「仏」の方法が話題となり本末転倒になる。 ある神社の話です。本殿が長年の風雪により痛みが激しく 修理することになった、費用は莫大、そこで御神木の杉を売り(切り倒す)本殿は元の荘厳を取り戻した。 |
今回ここまで
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