官許と地鎮祭

2004年11月14日
やっと、宝林寺庫裏建築の官許が取れた。


16委庁財第4の960号
宝林寺住職 童銅啓純

平成16年9月1日付けで申請のあった特別史跡讃岐国分寺跡の現状変更(庫裏増築)を文化財保護法(昭和25年法律第214号)第80条第1項の規定により下記の条件を付して許可します。

平成16年10月15日

文化庁長官 河合隼雄



1 工事に際しては、国分寺町教育委員会職員(埋蔵文化財担当)の立会いを求めること。
2 その他、実地に当たっては、香川県教育委員会の指示を受けること。

これが官許の全文である。これだけ見ればさすが河合隼雄仕事が速いと思うが、全容はほぼ一年かかりました。何故一年も掛かるのか不思議だ、不思議と思うほうが不思議な世界なのか世の中にうとい私は我慢してこの官許を待っていた。
5月の発掘調査から三ヶ月以上経った8月末に宝林寺新築工事にまつわる事前協議があった、相手は香川県文化行政課で協議内容は庫裏の外観、構造、形状、色彩、敷地状況などに関する事だった、ようするに特別史跡讃岐国分寺跡にふさわしい建築物かどうかをチェックするのである。
担当のお人が「行政としては外観、色彩など強制は出来ないが...特別史跡讃岐国分寺跡にふさわしい建築物を...」と云うのである、しかし文化庁の官許が降りなければ建築許可は降りない、と云うことは強制なのだムカッ。....まあ愚痴をいっても仕方がない。

秋晴れの11月9日吉日に地鎮祭を挙行した、仏式でである仏式と云うより童銅式かもしれないが、今後何十年も何十年も日の当たる事がなくなる土地に詫びを入れ、工事が終わるまで騒々しく掘られたり踏まれたりドンドンされる土たちに弁明して協力を求め、工事施工関係者方々の安全を祈願した。気分の良い一日だった。
何事も気分良く進めば、例え一年かかれども納得する、行政は公共社会の中でどちらに向いているのか、我々庶民の為の存在だと思うがどうもこちらに向いていないような気がする、仕事となれば仕方がないのか。




大黒柱

2004年8月29日


庫裏建築を想う時、いくつかのディテールが頭に浮かぶ、その一つが大黒柱である、庫裏に限ることではない、よそ様の家で大黒柱があれば眺めてしまうし、つい「いいですねぇー」とか言ってしまう。
大黒柱は死語になりつつあるのか、同時に建築時の音も変わってきた。
「家は三回建てて、やっと納得のいくものができる」、「住宅の平均寿命は30年」的な語録を信じない素人の私は「住まい」の象徴に大黒柱を当て込む。

先日、庫裏建築を依頼した生活空間の方々(設計、棟梁、基礎工事親方)に誘われて、木材ロジスティクス改革調査/産地見学会に同行した。
佐川木材団地に何千本とある在郷の原木の中から宝林寺庫裏の大黒柱を棟梁と選んできた。
嬉しかった。
樹齢80年。サインをする



庫裏建築

庫裏建築にあたり、宝林寺は特別史跡讃岐国分寺跡内にある為、ややこしいハードルがある。ハードルを置いたのは文化庁である。
このハードルを越すには、国分寺町役場教育委員会が窓口である、次は香川県・文化行政課があり、その先に本丸の文化庁がある。
住職の願いは町から県、県から国へとつづく抜群の段取りが横たわり、その返報はまた同じ道をたどる、一つの事案は必ず往復して、かなりの日数が消える。

これまでにこの往復が何度あったや、もうじき一年がたつ。
特別史跡讃岐国分寺跡内の定めの主旨は「宅地化が進む前に史跡を保護整備し、歴史的環境と調和のとれた町作りをめざす」である。それで、跡内の一般住宅は建て替えはだめとなり、跡内の宝林寺庫裏建築もすんなり行かせない。
建築の必要性を問われ、建築地の発掘調査をして遺構等がなければ、外観の形状や色調を注意して設計せよ。である。
建築趣意書にも書いているが、建築を急ぎたい。風呂がいつ壊れるかわからない毎日の風呂である、このことも伝えたがどこまで急いでやってくれているのやら。
五月に発掘調査をした、たいしたものは出ず、二日で終る。予想では九月頃にやっと官許が下るらしい。
後二ついいたいことがあるが、後にする。



その他

宝林寺の縁起は定かでない。在所は四国霊場八十八箇所八十番札所国分寺の東隣りにあり、宝林寺と国分寺は特別史跡讃岐国分寺跡の中に在る。
天平の昔歳からある国分寺に隣接していることは宝林寺も1200年と続く法灯の中に縁があり今があることかも知れぬ。
こじつけても仕方がない。俗説には350年の歴史があるとか。たぶん昔の国分寺の塔頭寺院(たっちゅうじいん)か隠居寺か?

境内にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)には宝暦八年(1757年)とあり、1970年に取り壊した際の畳の板べりには嘉永六年(1853年)の銘があった。
円林坊と呼ばれていた時代もあり、宝永年中(1704〜1710)に願いでて寺号免許され、宝林寺と称するようになった。
宝林寺の過去帳に祀られている一番古い戒名には正徳元年(1711年)とある。
あながち俗説もまんざらでない。



その他その二

古い航空写真がある。その白黒の写真と私の原風景とはさして変わらない。樹齢300年は有に越す松が広い境内を埋め尽くす。八十番札所国分寺。その東隣りに位置する宝林寺は竹やぶに囲まれ、辺り一帯は田んぼでのんびりしたものでした。
それが国分寺町は調整区域外(?)といつの間にか成り。町内の田んぼはこの20年で家が建ち並ぶ様となり、立派な道路がたくさん走り貫いた。
だが宝林寺の周りは天平時代からある讃岐国分寺跡特別史跡と指定され、田んぼを潰して東西220m南北240mが公園みたいになった。
公園(?)のまわりは依然宅地化が進み、それはそれは宝林寺にとって、この環境の変化は計りしれない。
父は散歩が好きだった(まだ入滅していない)。新興住宅街となった所は散歩コース、いつか不審者に間違えられたとか、私もうかうかできぬ。
宝林寺を囲むように広がる広大な公園、公園の周りを今風の家が囲む。
国分寺町は町を挙げてこの公園(特別史跡讃岐国分寺跡)の活用を考えている。
やはり、宝林寺もこの流れに乗らなければ。
以前のままなら、ゆっくり煙草でも吹かして身なりも気にせず徘徊できたが、そうは行かなく成り、座り心地も悪い。
そこでまず、足固め。1970年に建て替えた宝林寺は本堂も庫裏(住職の住まい)もひとつに収めた小さな寺である。
前住職(父)は裏に隠居の家を建てた、しかし私は寺の中で住んでいる。
行事がある度、家財道具の移動でたいへんだ。そこで庫裏を建て周辺の整備をする事になった。


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