座禅和讃3月9日


浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 
一たび耳に触るるとき
讃嘆随喜する人は 
福を得ること限りなし


疑わないで下さい。野暮は云わないで下さい。辱(かたじけな)くもこの和讃に触れれば良いだけです。
随喜とは共に喜ぶことです、意外と難しいかも知れません。反義語はやきもち(ジェラシー )かな、


いはんや自ら廻向して 


この和讃はそのまま読めば良いだけなんです。そのまま読むのがポイントです。私たちも鳥も花も「仏」です、「仏」と成るのでなく「本来仏なり」です、なんも遠慮はいりません。
誰しも思い当たる節はあります、しおれた花に水を。飛ぶ鳥の美しさ鳴き声に心惹かれ。幼子を年寄りをかばい、いたわる。そんなもんです、価値ではありません。価値・意義を考え求めるからややこしくなるのです。
花も鳥も幼子もそれ自体は不偏ニュートラルです、ソロバンを−に弾くか+に弾くのかは他者です、そして存在の理由は当事者のものです。
他者が同時に同じ花、同じ鳥、同じ幼子を見ても受け答えが皆さんそれぞれなのは当たり前です、しかし場面は同じです。
信仰を説いているのではありません、事実の話です。

釈迦は言う
現実に対する私の取り組み方は、信じることではなく見ることだ、と
彼の宗教は、「エヒ・パッシカ」とみなされてきた
「来て、見よ」だ
「来て、信ぜよ」ではない
釈迦は「エヒ・パッシカ」すなわち「来て、見よ」と言う
それはここに、現にある
あなたはただ来て、見さえすればよい
釈迦は信じることは求めない
彼は信仰を落とした唯一の偉大な教師だ
彼は、信仰を落とすことによって
宗教をこどものように低い成長の段階から成熟した段階のものへと変えた
釈迦の出現によって、宗教は青年のようになった
それ以前は、宗教はこどもじみていた
それは一種の信仰、信念だった
信仰は迷信であり、それは恐れから出てくる
そして信仰は盲目だ
釈迦は宗教に眼を与えた
彼は 「見よ。信ずる必要はまったくない」と言う
見てしまえば、それは(信)ではなく、(知)になる


イタリック・座禅和讃 和尚ラジニーシ、白隠禅師を語る(瞑想社発行)