座禅和讃3月23日


直に自性を証すれば
自性即ち無性にて
すでに戯論を離れたり 

「直に自性を証すれば」とは自分自身(自己存在・実体)を証すれば(あきらかにあかせば・証)です。
無いモノではありません、本心を見ろ!です。
本心はどなたの内にもあります、常には忍ばせているかもしれません。本心の代わりに色々と用意して使い分けなければ大人は生活できません体面面目です、体面面目は私たちの顔です、この顔がいくつかもあり機能するから社会生活が円滑に送れます。
しかし当たり前ですがこの顔(社交的人格・仮面)の奥にはまだ何かあります、仮面の奥にある本心ははにかみ屋でなかなか姿が見えないし行方不明の時もありますが必ずあります。しかし「本心」と言いましても「本心」を見るのも表すのもその時の仮面ですから当てになりません。
「性根」という言葉があります、「性根を据える」「性根が腐る」の性根です、根だから土・大地があります。粘り強い根性やど根性も大地がなければ成り立たないのです。
この大地こそ仏教の基本概念の「縁」なのです、縁は相互依存関係です誰一人もれなく自立自存が不可能です、現実は外部の関係も内部(心)も相互依存です。

まわりくどい例え話ですがここにある「自性」は大事な意味があるのでもう少し。

二世紀頃の南インドの哲学僧ナーガールジュナ(唯一の仏教各宗派共通の先覚者・祖師として名を残す・龍樹菩薩)はブッダの教えの縁起(縁)・無我・無常に「空」を絡め合わせ仏教を堅牢無比な思想と成し得るなかでこの「自性」を追究したのです。それこそ白隠禅師が謳う座禅和讃のここにある「自性即ち無性にて」なのです。
「自性」を自己存在・実体と先に紹介しました、或いは事物をそのものたらしめている本来的な不変の性質とも言えます。ナーガールジュナは存在しているものには自性がないと言い、一切の「モノ」は自立自存でき得ない(無自性)・「モノ」の内に不変不滅の本質のようなものは無いと説いたのです、この証しに縁起説(相互依存関係)を持ち出しているのです「モノ」がさまざまな原因や条件によって生起し消滅する縁起の現象は、自性が無いからこそ可能であることを主張したのです、まさに無常で無性なのです。

話を下手な例え話に戻します、仮面も本心も性根も無自性なのです(自性即ち無性にて)もう一ついえば「空」です、「空」は無いと言うことではありません。またまた喩えですけど空き地(あきち)みたいなものです、空き地の意味は土地がないという意味ではなく利用されていないことです、言葉として空きビン、空き缶と同じです。存在(土地・ビン・缶)には自性という中身がないという使い方です。

白隠禅師はこの「自性即ち無性にて」が「衆生本来仏なり」の次に謳いたかったのではと思うのです、だから「すでに戯論を離れたり」と続けたのではないかと推測するのです。その他の論はお遊戯だと。


和尚ラジニーシは伝える

直に自性を証すれば自性即ち無性にて・・・

あなたが自分自身を奥深く見入れば
内側の、本来の自分自身を見性すれば
そこには視界を妨げるものは何もないことがわかるだろう
それは純粋な空間だ
自性は無性だ
それは空、シユンニャータだ

すでに戯論を離れたり

あなたが自性のなかを見て、そこには何もないと知り
あるのはただ空なる無限だけだと知ったときはじめて・・・
言葉はもはや何も意味をなさず、あなたは言葉を超える
あなたは自分の本性のなかを見て
それを説明できるような言葉もなく、
定義できるような言葉もないことがわかった
言葉ではそれを指し示すことはできない
だから、すべての聖典は意味がなくなる


いつもながら刺激的だ


イタリック・座禅和讃 和尚ラジニーシ、白隠禅師を語る(瞑想社発行)